寝かせる。

貧乏と貧乏性の区別がつかなくなることが貧乏の最大の弊害だ、ということを考えるでもなくただ言葉として頭に思い浮かべつつ、思い浮かべたそばからこうして頭の外に書き写してしまうとします。すると頭の中はその言葉を留めておく責任を逃れたと安心し、すぐに黒板消しで黒板をごしごしやってしまう黒板係が登場するでしょう。その瞬間ここは小学校かと思いますね、実際、黒板係がいるなんて中年男(いっけん若く見えるが、小学生ほどではない)の頭の中とはそれは思えない。


そういう頭の中の私がこっそり応募しようかと思ってた『幽』怪談文学賞(短編部門)でしたが、時間切れアウトとなったためにこうしてまた頭の中の板書から、みなさんに見えるところにノート取って黒板係の登場を待とうとしている。九割がた、規定枚数からみれば書けていたともいえるが、最後の落しどころがぎりぎりまで粘ったものの見つからず、しかも読み返したら推敲の余地ありまくり(なんだこの単調さは!等々)でもあり、それでもせっかく書いたんだし目を瞑ってえいっと投函するのが今までのやり方でしたが、今年の私はちょっと違った。これは今回はすっぱりあきらめて、寝かしておこう、と考えました。これは進歩というか、小学校そろそろ卒業?というくらい成長に目を細める私が私の背後に立って眺めている気配を、感じられてると感じる、背後に立って眺める私がいるわけですよ。


ここで投函しちゃうと、いろいろ中途半端に試行錯誤中だったものがいちおうのケリがついたかのように(ケリをつけたくてウズウズしてる)私に(曲解的に)錯覚されてしまうので、途切れてしまうわけです。試行錯誤が。そしてふりだしにもどることのくり返しループがこれまでずっとあったのだ、ということにして、そのループを脱したことにしてみる、それが現在選んでいる態度です。


怪談大賞なのに全然怪談じゃないよねーこれは。という反省は最初からしない(怪談など知らない者のように書く)ことに決めてたのでしてないのですが、内田百けんのような話(夢コントみたいのじゃない、ちょっと長めの「山高帽子」とか「由比駅」あたりを想定)を全然違う文体(おもに阿部和重を頭に置く)でやる、という試みが満足のいく方向を見出せたかというのは微妙なところで、もうちょっと先まで進んでみないとこの道でいけるのか判断できないよね、と思えたから、それはもう試みとして継続していくしかないだろう、と。


あとやっぱりもう少し事前に材料を数集めてから書き始めたほうが、「なにもない」話にしろ書きやすいかもと思いました。空気の天ぷら揚げるみたいな料理は、なにかちょっとだんだん行き詰りますね。くだらないものでいいからたくさんストックしておくか、あるいはくだらないものが散らばってる場所に居場所を移して書き始めるべきだったと思った。くだらなくないと、主役をもっていかれるからくだらないのがむしろいい。主役はあくまで小説という狂った空間である!または小説が狂った空間になるのをさまたげない、些細な石ころのような言葉が大量に落ちているところに、小説を建てにゆく旅に、頭の中で出るために、頭の中はもうちょっと、いやもっとずっとはるかに、広くないといけないなあと感じる。