脈は乱れて

 どうやら自分が不整脈持ちらしいことがわかったので、持病リストに不整脈を追加したばかりの中年男の日記になります。
 数日前なんとなく体内のリズムが狂って軽くつんのめるような感覚が(体内で)頻発したので、そういえばこの感じは以前も経験あったなと思い、もしかしたらと思ってはいたけどしばらく何もなかったからすっかり忘れていた。ということをそのとき思い出したのだった。
 手首に罠のように指を添えて待ちかまえてたら、あっさりそれを捕まえることに成功した。たしかにつっかえるように拍が一瞬遅れるのである。つっかえているなあ、ということがしかし明白になったところで、水道代の払えない男が外に集金人が待ち伏せているかもしれないドアを開け、取り上げると脅されている保険証を片手に病院に向かって歩き出す可能性は、相変わらずゼロなのだ。したがって釣り上げた魚はふたたび海へリリース。私は何ごともなかったかのようにラジオ体操を始める。


 中原昌也『KKKベストセラー』を読んだ。中原氏が小説以外の文章で展開する愚痴をベースにした何百枚もつづく小説が読みたい、という私が抱いていた願望にかなり近い作品だった。このままこの何倍かの分量の小説になっていないことが惜しまれるが、これだけでも十分面白いのでこれが(作者による連載打ち切りにより)何百枚もつづいていないことをそれほど残念がることはない。初期の掌編のように頭の中でチャンネルがせわしなく切り替わるような感覚が、より小説的に引き伸ばされつつ新鮮によみがえる前半。そして鬱の堂々巡りがはじまる後半。どちらにもつよく心惹かれるものがある。私はベケットの『モロイ』という小説をはじめの数ページから先にどうしても進めなかったのだが、この後半の堂々巡りは以後何百ページに渡ってつづいても飽きずに読み続けられるような気がした。が、その一因は活字の大きさかもしれないという気がそう書いたそばからしてくる。あと、ベケットという人にも中原氏のように人間的に親しみが湧いてくれば小さい活字でも読めるかもしれない。私は文章を文章だけで読むには体力があまりにもないので、何か横に手すりとか取っ手のようなものがあると助かるのである。しかしこの中原氏の小説は手すりを(読者の、中原氏への先入観頼みでなく)小説の内部にまでだまし絵のように取り付けてあるだけでなく、手すりのつもりで握ってた部分が空中ブランコになって宙を漂うようなところもちゃんとある。よくよく考えるほどこれは最後(があるとして)まで書き上げられたらすごい傑作になっていたかもしれない、と思い始めてしまうが、だからこそこの作品は今あるような形で投げ出される必要があった、のかもしれないのだ。