字間感覚

ここんところ仕事をせず小説書いたり短歌をつくったりばかりしてたら調子が出てきた。やはり私は仕事しながら小説書いたり短歌をつくって調子がよくなることはできない、と思う。同時に二つのことができない(短歌と小説は二つのことではなく、一つのことの先っぽが分かれている感じ)。そして目の前に締め切りがある必要もある。
ボルヘスの小説に、処刑される直前に一瞬の時間を意識の中で無限に引き延ばして生きる話があったと思うが、そんな感じに。時間の感覚が変化すると、小説や短歌も普段なら読めないところまで読めるようになる(ような気が自分ではする)。たぶん俯瞰という態度によって我々はビデオの早送りに近い状態をこの現実につくりだすので、スロー再生やコマ送り、静止画に近づいてゆくときは逆に俯瞰の視点が放棄されてゆく。小説の主題とかストーリーが視界から消えるかわりにある一文の中で起きていることや、一文と一文の隙間、あるいは文字と文字の隙間で起きていることが見え始める。そうなると適当なページを開いて適当な一行を読むだけで面白い。そしてこのような面白さに感覚が働いていないと、文字の隙間で書くタイプの私には小説も短歌も本当はつくれないのだろう。つくれていないときでも(とくに短歌は)小手先でつくってしまい、しかし字間に感覚が働いていないから正しくそれを評価することもできなくなっている。よいとも悪いとも。たいていはその状態にいる。


あと自分へのヒント。伝言。
短い小説は描写抜きで書くことができる。ものすごく変なことがめまぐるしく説明されているだけでたぶん五十枚は成り立つ。バロウズがそうで、あれは「物凄く変な説明小説」だと思う(だから長編も短編のようにバラして読まないとつらいが)。