誰が見ても人でなし

中原昌也「誰が見ても人でなし」(「群像」十月号)。初期の中原昌也が小説の余白にものすごく面白い落書き(落書き付きの小説ではなく、余白の落書きのみでそこにない小説を意識させるようなもの)を書いていたとすれば、ここ数年の中原はあくまで小説そのものを書こうとしているということ、そしてまさにこのように書いてしまったということを感動的に示す作品だった。この小説がもし見慣れた中原節のコピペにしか見えないとしたら、その見方は半分当たっているがその正解は行き止まりの壁に書いてあるただの「正解」という文字だ。そして小説はもう半分のもうひとつの正解のドアをあけた向こうにひろがる荒野なのだが、そのドアが(鍵など掛かっておらず、全開でさえあっても)まさか出口だとは気づかない人たちにとって、小説は荒野ではなくて建物なのだと思う。それは小説は入口と出口の間にあるという考え方で、その場合冒頭に入口があって出口は末尾にあることになる。しかし、だとしたら小説は物語とまるきり同じサイズ、物語そのものになってしまう。物語の入口はたしかに作品の最初にあり出口は最後にあるが、小説というのは物語の入口と出口の間に、ここだと指し示すことのできない出口が口をあけてそこから出ていくところである。だから多くの人がそこを素通りして物語だけを読んで小説を読んだことにする。だったら最初から物語でいいじゃないか、と考える作家は小説への出口のない物語を書き、読者はそれを読み、小説のことなどみんなそろって一斉に忘れてゆく。