ゴシックハート

意味のあることを書かなくて済ませるには書き続けることなのだが、ちょっと気を抜くとすでに書き続けていないのだ。そして書き続けていないところには書き始めないと書き続けることができず、書き始めることは意味ありげで私は自分で自分の書き始める様子に思わず注目してしまう。のでますます書きにくくなるので書かないことがつづく。
今図書館で借りて読んでいる本は高原英理ゴシックハート』である。
私は私を刺激するイメージを保管しておくカテゴリをもっていない。そのためそれらの刺激的なイメージはいつもどこかに散らかってて必要なときに出てこなかったり、そういうものがあったこと自体忘れてしまったりする。それらの一部を「ゴス」というカテゴリを利用してある程度まとめて保管しておけないだろうかと思った。私は「ゴス」のことをほとんど知らないために、「ゴス」の中の毛嫌いできる部分にばかり反応しているおそれがある。そこにはたとえば丸尾末広が耽美的に解釈されたりすると「そうじゃなくって! あれは冗談なんだから! ナンセンスなんだからどう見ても!」と抗議したくなるような、微妙な線引きにこだわる縄張り意識や、近親憎悪的な気持ちがまとわりついていることはまちがいない。だから「ゴス」を少し勉強してみたい気分になっているところに、私はいちばん最近の自分のささやかな進歩の兆候を見出す。もちろん「ゴス」がいいものか悪いものかなんてことに関係なく勉強するのは進歩への道だ。
そしてもしも「間違ったゴス」というものがこの世にあるとしても「正しいゴス」をイメージの保存箱として手に入れられればそれでいいのだから。

「こんな恐ろしい経験は初めてだ」と感じさせることを目的としているのが「恐怖」の物語だが、多くに読まれ、読者が慣れ、しかも変わらず愛されているとその物語は「怪奇」の棚に並べられることになる。怪奇とは歴史的な恐怖、中でもとりわけ懐かしい「古きよき恐怖」なのである。
高原英理『ゴシックハート』「3 怪奇と恐怖」より)