バランスについて

われわれは何かを無償で讃えることを苦手としている。その何かを讃え持ち上げるための錘として、別な何かをかわりに傷つけ貶めずにいられないということがある。
もともとお世辞にも心根のきれいとは言えないわれわれが、奇特にも嫉妬の感情を抑えて他者に賛辞を送るにはバランス上、相応の悪罵の投げつけ先が同時に必要とされている。ありもしない善人の心を無理に脳味噌から振り出したわれわれは、その反動から普段にもまして陰惨な負の感情を体内に爆発させることになるのだ。
だからわれわれが美談をただ美談としてのみ語ることはほとんどない。美談に涙ぐんで見せた目元も乾かぬうちに、「それに引きかえ○○ときたら…」式の切り返しで視線をめぐらせ、その場の周辺に犠牲者は出る。不運にも偶然われわれの目に留まり、反射的に罪人と認定された誰かを絞首台に掛けたその重さで、美談の主人公を乗せたゴンドラを高々と持ち上げる方式である。
柄にもなく美談にうつつを抜かしたいがために、適当な犠牲者を選び出してくびるのか。あるいは誰かを絞首台にぶら下げたくてたまらないから、その口実として寄るべき大樹としての美談を必要としているだけなのか。
いずれにせよ両者はきれいにバランスが取れているのであり、この国の恒常性はこうして美しく維持され続ける。われわれは涙もろい美談好きであることと陰惨で血に飢えたリンチ魔であることを、何の矛盾もなく生きるシステムをいつからか手に入れている。