未読の山

私は読書量がとても少ないのでこの世にいかにも面白そうな未読の本が山ほどあるのだが、読書のストライク・ゾーンもまたおそろしく狭いためにそうした面白そうな本をたまに手に取ってめくってみたとしても、たいてい何かと理由を見つけてすぐに頁を閉じてしまう。
しばらくしんぼうして読み続ければかなりの本はどこかで急に面白くなってくる、ということは経験的に知らなくはないが、その経験も当然ながらまったく乏しいものに過ぎないので説得力の厚みを欠いており、本当は夢中で読みふけるはずだったかもしれない本の頁はいともかんたんに軽々と閉じられてしまい、その後たたび開かれることはめったにない。
たとえばミルハウザーなんて書評などを読むかぎり面白いに違いないと思うのだが、ためしに短編集のいくつかの短編を読んでみると何だかちがうなあという感想を抱いてそれきり読むのをやめてしまう。ある作家を試しに読む、というばあい私は短編を読むことが多いが、本当は短編より長編から入ったほうが慣れない作家に体をなじませるにはいいのである。短編だとなじむ前に読み終えてしまうから。だが本を読むのが遅い私は長編をいったい何週間後に読み終わるかしれたもんじゃないので、試し読みはやはり短編で済ませることになる。
ミルハウザーは短編「イン・ザ・ペニーアーケード」などを読んでみたのだが、つまらなくはなく面白いのだけれど、その面白さは私が大好きなものとまったく無関係な面白さではなく、大好きなものと壁一枚へだてた惜しい面白さなのだと思って、するとその壁の存在の残念さがきわだつようなところがある。これはあれか、野球における打者が得意とするコースからボール一個分はずしたところにその打者の弱点がある、というどこかで聞いたことのある法則みたいなものに似通った話だろうか。そのボール一個分のずれを感じて閉じてしまった本の頁はかぞえきれないものがあり、でも本というのは最初の二、三ページで“コース”が読めるものではないし、作家は作品の一、ニ作で何者なのか判断できるものではない。できるものではないとは知りつつも、その先にはなかなか進めないのでピンポイントの得意の作家以外の作家が、なかなか増えていかない。