叙事性についてのメモ

人間界のドラマは、真実などどこにもないという態度で事実の羅列として語られる。
そのことを仮りにドラマ的叙事性と呼ぶことにする。
真実は共同体によって保証されるもの(幻想されるもの)だが、現在われわれが接するドラマは特定の共同体の中でのみ流通するものではないので、真実性の保証が受けられない。逆にいえば真実性への奉仕の義務もない。
そこでドラマは叙事の側にぐっと傾くことになる。


だが真実とまったく無関係にもドラマは語ることができない。事実の羅列が、なんらかの真実性への通路となりうることを仄めかさずにドラマは成立しない。
その通路の暗示によって、羅列された事実はバラバラになることを逃れ辛うじて一列に繋ぎとめられるのだ。
「母が死んだ。一月後に父が死んだ。翌年姉が死んだ。」
これは叙事である。
「母が死んだ。後を追うように一月後に父が死んだ。翌年には姉もまた両親の元に旅立った。」
こちらは事実のあいだに通路がつけられている。三人の死を結ぶゆるい因果の暗示で、絶対の真実というわけではない不確かな真実性がドラマの背後に仮設される。
だが前者の場合も、羅列される事実の選択と順番のうちにすでに通路の暗示が始まっており、したがってわれわれは前者にもドラマを読みとる。


ドラマは事実と真実のあいだで語られるものである。
叙事の背後に道がつながってゆく気配はあるものの、それが絶対の真実への道である保証がないところが神話とのちがいになるだろう。
神話もかなり叙事的だが、羅列される事実は絶対の真実への道をかたちづくる。
神話があえて冗舌に真実そのものを語らず、黙説法によって間接的に真実の方向を指し示すのには理由がある。
つまりここでは真実が〈あえて言うまでもないほど当然のもの〉であることや、真実が〈われわれ人間ふぜいが侵す可からざるもの〉であることを、この黙説法(の採用)そのものが伝えることになるのである。


人間ドラマの叙事性は、神話とはちがい真実がどこにも見出せないことを発端として選ばれる。
だが両者の形式的な類似が、ドラマ的叙事性を本当はまるで似ていないはずの神話へと接近させることがある。
事実を羅列することに徹している言葉が、それらの事実を束ねるために仮設された真実性、といったものを超えて、ある絶対的な真実を指し示しているように見える場合である。
もちろんわれわれは、そこで示されている真実が何であるのかを知らない。そんなものがそもそもあるはずがないのに、何故か示された真実がそこにあるかのように見えてしまうわけだ。
だから神話によく似たそのドラマを神話そのものとして受け入れることはできない。
ニセの神話では黙説法は効果的に真実にわれわれを導く役目を果さず、ただ虚無へとわれわれを押し出す。
そこには当然のことながら神が不在だが、神がいなくてはならなかったはずの場所だけがある。
典型的な例をあげるならカフカである。