低い部屋で読書

私は高いところに住んだことがない。
実家は二階建ての一軒家で、生まれてから二十五歳までそこに住んでいた。
次に引っ越したのは十階建てマンションの二階。
そこで二年暮らしたのち、二階建てアパートの一階に移り住んで十数年(現在に至る)。
二階以上の高さで暮らしたことがないわけだが、ではその二階が二階以上の眺めになるような土地、つまり高台の建物に暮らしたことというのがまた、一度もない。
実家は谷あいというか盆地の底のようなところで、どこに行くにも上り坂だった。
独り暮らしを始めたマンションは、海に近い平坦な土地だけど、周囲は高い建物ばかりで見通しが悪い。
今住んでいる場所も盆地。かなりの急坂をこなさないと駅には近づけない。
世界を高みから見おろすような不安とは無縁に、つねに地べたに這いつくばっていることの自覚をうっかり誤る心配のいらない、じつにふさわしい環境にのみ暮らしてきたといえる。
つまり世間というのは「上のほう」にあるものだ、ということが物理的にも正確に認識できる暮らしだということである。


地の底から太陽に焼かれながら急坂を上って図書館へたどりついた。
『シネマの記憶喪失』阿部和重中原昌也
『新編 日本の怪談』ラフカディオ・ハーン
『コップとコッペパンとペン』福永信
「ゴー!ゴー!ナイアガラ」大滝詠一
「はらいそ」細野晴臣&イエロー・マジック・バンド
「pulse」PINK FLOYD
を借りた。
それからドンキでシウマイやパルメザンチーズや輸入コーラやめんつゆを買った。
帰ってからコーラを飲んでいると、原材料にカフェインが書いてなかったのでショックを受ける。


図書館に返しにいくために朝のうちに川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』を読みおえた。
いかにも頭で考えたという硬さや、いかにも取材しましたという押し付けがましさ、の全然ない登場人物たちがいい。ということが、この本のよさのほんの一部でしかない、というくらいにいい連作短編集だった。
各短編間の、エピソードの連携が抑えられているのもいい(私が気づいてないだけの可能性もあるが…)。せこせこと無理につながりをつけないことで、風通しがよく、構図が大きくなっている。
しかしいちばんいいのは、極論すれば文章だと思う。いろんなことが当然の前提であるかのように省略されて書かれる文章が、その略していいこと(と悪いこと)の判断にまつわる勘のたしかさのようなものが、きわめてニュートラルかつ体温の感じられる文体の中に一貫している。
たぶん登場人物たちにはモデルがいるのではないだろうか。というのは、モデルがいた方が自由に書ける、大胆に動かせると思うからだ。実在の人間をフレームとして前提すると、人間というのはかなり出鱈目なところがあり、しかし何か一貫もしているというその感じが出るような気がする。頭で考えたキャラクターは、考えた設定に縛られる以外に根拠がないから、だいたい窮屈な言動しかできないか、本当に単にとっ散らかるかのどちらかになりやすい。
というようなことをいろいろと考えながら面白い読書をした。
おどろくべき上手さではないだろうか。