物語という担保

小説は物語を担保にした散文である。そこに物語がほとんどなくても(完全になくても、かどうかは「完全に物語がない状態」がどういうものか分からないので分からない)小説は成り立つが、物語という誰にも当たりのいいクッションを欠くことで小説は良くも悪くも“ぬるい”部分を失うことになり、熱湯か冷水になった作品は読者を極端に選ぶようになる。
今読んでいる『コップとコッペパンとペン』の福永信は、物語という担保のない小説を書く作家である。帯のコピーに「1行先も予測できない!」とあるが、行間に物語というクッションを欠いた小説はいわば予測できない行だけをひたすら連ねるか、逆に前の行をひたすらなぞる(なぞり損なう)ことでしか書き続けられないものかもしれない。中原昌也の初期からの作風の変化は、乱暴に言うとこの前者から後者への移行だと考えられるし、福永信もこの両極のあいだで書いている作家だと思う。