倒錯と自己肯定

掌編にあえて身の丈にあわない大きな物語を語らせ、その遠近法の狂いを狙うという書き方がある。
ボルヘスはほんらい長篇サイズの物語を掌編に書くと公言していたと思うけど、この発想は基本的に小説家というより詩人のものだと思う。
小説はだらだらしたものであり、そのだらだらの部分に何事かが宿るというのが小説家の態度だ。それは長篇に限らなくて、短編でも掌編でも、うっかりだらだらしてたら字数が尽きちゃった、といった読後感があるものが本来は小説らしいなあと思う。もちろん長篇におけるだらだらと、掌編におけるだらだらは同じものとはいえないわけだが(掌編には掌編サイズのだらだら、というものがある)。


大きな物語を圧縮してコンパクトな持ち運び便利なものにする、という発想は、どんな長大な文章も印刷して大量に出回るどころか、データとしてメールに添付したりネットに置いて簡単に配布できるこの世界では、とくに役には立たないものである。
だからそこには倒錯が生じる。もはや何の役にも立たない、必要とされていない技術をあえて駆使して小説を書く、というねじれが「長大な物語を語る掌編」のまわりには生じる。
この倒錯を「時代遅れな詩人としての私」を肯定する甘美な装置と見なしてしまうと、作品は読むに耐えないものになると思う。
せっかく狂ったはずの遠近法が、書き手の膨らんだ自意識を保護するのにふさわしい密室、として歪んだまま安定する危険がある。それでは読者は歪んだ空間を見にいったつもりなのに、中に居座っている作者に出くわしオモリをしなければならない。オモリがしたい読者にはむしろ喜ばれるかもしれない。