でたらめを保存する

でたらめを書く技術、には二通りあって(もっとあるかもしれない)一方はでたらめを目一杯でたらめさを極めて描ききるという技術、もう一方はでたらめなものを一見でたらめに見えない整った外見の中に(でたらめのまま)閉じ込めるという技術、である。
たとえば怪談を書く技術というのはこの後者に属するものだと思うが、内実のでたらめさと外見の整い方のギャップがあるほど読んで脳がねじくれるように妙な気分になることができる。体験談とか都市伝説とかが無数にある中に偶然あらわれてくるからこそ貴重だったこのねじくれ、しかし稀少すぎてその正体はおろか実在もあまり知られていなかったこのねじくれを、文字が書かれる現場における再現可能な“技術”として定着させたところに平山夢明氏の怪談作家としての功績のひとつがあると思う。
つまりでたらめなもの、はでたらめであるがゆえに捉えどころなく、話として固定するのが困難なのだが、たまたま底の平たい石みたいにうまい具合にひとつところに安定して留まる形をなすものがあり、それらが怪談なり都市伝説なりにおいて「でたらめであるが整った話」としてわれわれの脳をねじくれさせてきた。
あくまで偶然の産物であるから滅多にないとほぼ諦めていた、そのような稀なるねじくれとの出会いを、奇跡のように多発させる怪談の書き手として十数年前に私の脳の前に(活字として)突然登場したのが平山氏である。小説のばあい平山作品も「でたらめさを極める」ほうへかかる比重がかなり大きくなると思うが、それでもなお、その極められたでたらめさが頑丈な結構と文体の輪郭のうちに納められて作品化されるところは、実話怪談と小説をつらぬく平山夢明の作家性の揺るぎなさであるし、実話怪談の一種の“小説化”(つまり怪異=でたらめな事態をまさに今読者の目の前=テクストの表面、で起きていることとして直接的に呈示)を果たした時から、平山氏の仕事は一貫して距離を延ばし続けてきたのだと言えるだろう。