無意味と作品

私が小説や、小説に似たいろいろのもの(漫画や短歌や実話怪談や批評や映画など)に求めるのはつねに無意味さであると思う。
無意味さというのはただ単に何もないということではない。ただ何もないことに私は無意味さを感じることができない。無意味は必ず意味を経てあらわれてくるものであり、したがって無意味の前提となる意味のありようによって、無意味さもまた無数のヴァリエーションを持っている。
意味という森の奥にある無意味という空き地にたどり着いたり、さまざまな意味をもつ部屋を案内されているうちに急に無意味の部屋へ放り込まれたり、無意味さとの逢着のしかたはその作品の意味の部分に決定される。そしてふたたび何事もなかったかのように意味が回帰し、時にはたった一度きり、時には何度も無意味と意味を行き交いながら、私は作品を経験する。
あるいはあからさまには無意味さと出会うことなしに終えるかもしれない。それでも意味の向こうに無意味の気配を感じ取れるならその作品は私の求めるものである。また初めから終りまでひたすら何もないように見える作品であっても、そこにかすかに意味のつながりをたどらせる道がつけられているなら、私はその道を歩きながら無意味を味わうことができるだろう。


無意味さが受け手に引き起こす感情の一方の端には恐怖、もう一方の端には笑いがある。
それらは無意味に直面したときの不安定な足場のない感情のそれぞれひとつの落しどころであり、それゆえ不安の反動としての激しさをともなう感情である。その激しさの中で人はかすかに安堵を見いだしそれにすがっている。無意味さに到るための意味のかたまり、としての作品が例外的にポピュラリティを獲得するのはしたがって恐怖や笑いに特化して看板を出している場合が多い。
両者を比較すれば、娯楽性の確保された感情の激しさ、という点では相対的に笑いのほうが上回ると思う。その分恐怖の側には、ジャンルの規則を緻密に書き込む冷静さが受け手に生まれ、その厚みが人の往来を時に阻害する場合もあるだろう。無意味にいたるための意味の厚み、とは別種の意味の皮膜が作品を包み込むことになり、この皮膜は人を作品から少々遠ざけ、つまり無意味さに出会う機会を減少させ、そのかわりに作品やジャンルに対する受け手どうしの饒舌の交換に場所を提供する。こうして恐怖という無意味さはとくに危険な牙や爪を抜かれるが、本来の姿では死にかけることで逆説的に生き延びていくことになるのだ。
しかしここには“単なる無意味さに限りなく近い笑い”に注目し続けるような層、笑いというジャンルにつねに一定数あるそういうマニアックな部分に対応する、恐怖というジャンル内での“単なる無意味さに限りなく近い恐怖”のマニアを生み出しにくくしている風景も、同時に見いだされると思う。
あるいはまた、ナンセンスな笑いと違ってナンセンスな恐怖は、(笑いほどの感情の激しさを保証されないために)単なる無意味さそのものにあまりにも似てしまうので、そのかすかな気配にだけ注目し続けることはきわめて困難なことなのかもしれない。