透明さについて

三十代の十年間がひどく見通しのいい空白だったという印象を書いたが、この期間は私が学生や職業人としての所属をもたなかった初めての十年間(正確には二十七からの十三年)であり、またそれにともなう経済的困窮と膨大な退屈を埋め合わせるにふさわしい手段としてのネットが、まさに空白といっけん見紛うばかりの透明度を獲得していった期間だったという印象がある。
ネットの匿名性というとなんとなく暗黒っぽいイメージがわくが、実際は匿名であるということも透明性の一部だ。そしてネットではみな名を名乗らないから匿名的なのではなく、たとえ名を名乗ってもその名前が記名性としてほとんど機能しない、名前が視線の行き止まりとならずうしろが必ず透けてしまう点が匿名的なのだと思う。
ネットの言葉はどんなに積み重ねられてもわれわれの視線を表面で遮ることはない。すべての言葉はその向こうに別な言葉を透けさせている。透けている言葉の向こうにもさらに別の言葉が透ける。そのようにどこまでも底のない透明な画面に視線は吸い込まれていく。だからネットにはびこる悪意は“闇”という文学的な修辞で語るのはふさわしくなく、それはもっと数学的な風景である。すべてはあらかじめ空間に書き込まれており、その都度たとえばその場の悪意を代表する誰かがそれをなぞってみせると、背後に無数の確率的なバリエーションの存在が意識され(あるいはそれらをいちいち律儀になぞる者が現れ)その透明さ、底無しさ、無限さを手に負えないと感じたわれわれが唖然とするわけだ。
かつてテレビが誇った擬似的な透明さをネットが凌駕した(というか、ネットがもつ本質的な透明さを広く知らしめた)ポイントがたぶんこの十年のどこかにあったのだと思うが、私がテレビをまったく見なくなったのも「もうネットで十分」という判断が数年前に起きたからに違いない。そして私の人生もまたネットのように透明になり、時間が止まり、匿名的になった。ネットのせいかどうかはともかく、私は変化することがずいぶん難しくなっているようだ。