メレンゲで読む

十二月になっている。
今年驚いたのは近所の金木犀がいっせいに咲いたときだった。
「こないだ咲いたばかりだよな。二、三ヶ月くらい前?」「いや、こないだと思うのは錯覚で、ほんとは数日前なんじゃないか」「つまり数日前にそう思ったことを忘れてて、あらためて今気づいた、と」「数日前をうっかり二、三ヶ月も前と錯覚したのか」
と呆れながら納得しかけたのだが、私はふと思い出した。
その数日前だか二、三ヶ月前にいっせいに町に漂った匂いに気づいたとき、私は路上を歩き回るバイトをやっていた。
だが私は、今年はその仕事をしていない。
つまりその匂いは一年前の金木犀の匂いだったのだ。それを数日前の出来事として納得しかけたのだから、この一年はそれくらい(365日を2、3日にまで)圧縮可能な、中身が空気だけのメレンゲか綿菓子のようなものだったことが分かる。
これ以外にも去年と今年の区別がつかなくなることが今年はたびたびあった。たぶんあまりにもスカスカな生活なので、脳内のフォルダが去年のをそのまま流用されているのだろう。そして秋に起きたことは「秋」フォルダにまとめて収納されているので、どれが去年でどれが今年なのか見分けがつかない。


小説を読んだり映画を見ても、私はその物語の中で起きたことを記憶から参照しながら筋を追ってゆくことができない。映画だと展開の速さについていけなくなる(思い出す前に場面が変わってしまう)し、小説だと自分のペースでものすごく遅く(途中やたらとインターバルをあけながら)読むのでどんどん筋や人名を忘れてしまう。だから記憶力を使わずに読んだり見たりできる作品しか本当はよく分からない。
つまり人物Aが人物Bをナイフで刺したとする。筋の上ではそれが何十ページか前に読んだ場面でBがAを侮辱したことを受けているとしても、そのことを踏まえずに読んで面白いものに書かれてないと私には理解できない。極端に言えばそういうことだ。
いい小説は伏線を無視しても読みどころはあるものだが、無視するのを妙に気がとがめる真面目さが私にはあるので(この真面目さは何の役にも立たない無駄なものだ)、本当は伏線など何もないほうがずっとすっきりしてていい。
残雪の小説には伏線がない。いま『廊下に植えた林檎の木』という作品集を読んでいる。残雪の小説では過去に引き戻されるということがない。登場人物による過去の回想はあるが、その作品の中でかつて読んだ場所を振り返ってたしかめる、という身振りを読者に求めることがない。通常の小説が時間と空間をたくわえていくような膨らみがまったく欠けていて、そのかわり次々とくりだされてくる場面が全部、ほとんど一文単位でいちいち予想を裏切ってくるのでその現前する驚異だけで読書を持たせてしまう。
物語というのは一種の貯金のようなものだが、残雪は貯金をしない。有り金をすべて博打につぎ込み、結果増えても減ってもまたすべて博打につぎ込んでしまうのだ。小説の終わりまでその博打の手を休めることがないので、読者はついに豪邸にもささやかなアパートの一室にも招待されることがないだろう。作者がけちだったり気が利かないのではなく、そんなものはどこにも存在しないのだ。