短歌日記

死の日よりさかさに時をきざみつつつひに今には到らぬ時計  寺山修司

  • めざせ秘宝館

寺山修司の歌集『田園に死す』には、「架空の青森の因習と寺山家の歴史を再現した秘宝館」とでもいうべき箱庭的世界観がある。それが短歌本来の箱庭性とぴったり一致し、ひとつひとつの短歌が、そのままテラヤマ秘宝館の展示物にもなっているという異常事態が起きている。
文学的な豊かさへの色気を捨て去り、貧しさに徹することで出現するいかがわしい鎖国的快楽。それが『田園に死す』にはある。われわれの生き苦しい現実世界のミニチュアとして定型を利用し、この世の悪夢を矮小化して再現するパノラマ装置。定型の牢屋にわれわれの分身を閉じ込めて見おろす残酷芝居。短歌の使い道としてこれ以上のものがあるという気が私はしない。少なくとも私が短歌に求めているものはすべてここに揃っている。あるいはここにしかない。

わが息もて花粉どこまでとばすとも青森県を越ゆる由なし  寺山修司

田園に死す』は完璧な作品です。文学的評価なんてこの際どうでもよろしく、大体、私はこの歌集を熟読したことがありません。完璧な作品はそもそも読む必要がなくて、誰にも読まれる前に完結していて、読者はただ近寄るだけですべてを見てしまうものです。読まずに見てしまう。無理して読んだところで新しい発見なんて何もありませんから、いちいち読む必要はないのです。
完璧な作品になるとはそういうことです。寺山自身の有名なフレーズを借りれば「完全な死体になる」ということです。『田園に死す』は短歌の完全な死体であり、この先には何もありません。短歌の終点です。だから頁をひらいても短歌を読むことはできません。ここには歌集の形をした出口(何処への?)がぽっかり口をあけているだけで、その出口の穴の輪郭こそが『田園に死す』なのですから。
そんな『田園に死す』を、第1回ノーベル短歌賞に推薦します。