短歌日記/非現実のこと

スカートの影のなかなる階段をひそやかな音たてて降りゆく  大滝和子

 この歌はなぜいいのか。この歌はめまいがするほど非現実的だ。だがきわめて現実的、写実的でもある。現実の光景としてわかりやすく構成し直せば、スカートをはいた主人公がいて、階段を「ひそやかな音立てて」降りていくところである。その影が階段のうえに落ちているのだが、状景の把握の順番を逆転させ、スカートの影のなかにある階段、というとらえ方をここではしている。階段の上にスカートの影があるのではなく、スカートの影の中に階段がある。その階段を降りてゆく主人公というとらえ方、言葉の並べ方によって、現実が非現実に裏返されている。どこにも存在しないはずの階段を、主人公は降りはじめているのだ。
 しかもスカートの影の中にある階段、というのは比喩ではなく見た目そのまんま写実的な事実なのだから、この歌は徹頭徹尾写実の姿勢を崩してはいない。にもかかわらず、このまるで床にぽっかり落とし穴がひらいたような現実の底のぬけ方はどうか? 短歌が現実を非現実化するやりかたとして、この作品はじつにみごとな方法を示していると思う。ここでは非現実は現実をかたる言葉の裏側に、もうひとつの解釈として貼り付いている。そして比喩という言い訳がなされていないだけに、いったん向こう側へ反転した解釈は、こちらへ戻る道をあらかじめ封じられているのである。
 いきなり前置きなしに非現実的なものを描いてしまうのではなく、現実の光景の中に非現実への入口をつくり出して読者を誘い込む。じっさい非現実へ足を踏み入れてもいるのだが、いっぽうであくまで現実の側に踏みとどまってもいる。現実と非現実の二重化。ふたつの解釈を共存させるような言葉の構築。そこがすごくいいと思う。短歌ではじめから非現実の側に立ってしまうと、どうにも取りつく島がないというか、最初から好意的にその世界を受け入れようという姿勢の読者、つまりマニアックな読者しか相手にしないかのような雰囲気をかもしだしてしまう気がする。それを避けるいちばん安易な方法が比喩をつかうことで、つまり現実を描きながら比喩のかたちでそこに非現実を持ち込むことなのだが、そのばあい比喩によってもたらされた非現実はあくまでニセモノの現実でしかない。だから現実の底が抜けることはなく、現実のうえに非現実がうすく上書きされたようなものになり、それはそれで面白みや幻想味があるので悪くないような気もするのだが、しかし上に引用した大滝和子氏の作品のようなものを読むと、比喩なんて全面禁止、という気分になる。比喩に頼ってはこういうのは絶対書けないし、こういう非現実しか本物じゃないのは明らかなのだから。