藤枝静男「田紳有楽」

 根本敬が以前どこかで、好きな小説としてこの作品をあげていたとおもう。講談社文芸文庫で一冊に併録されている「空気頭」は以前読んでいたけどこっちは未読だったので、今回読んでみたら根本敬へのこの作品からの影響はかなり濃いらしいと思った。法螺話の語り口が似ているというか、荒唐無稽な話をする際の、本筋とは無関係な細部の異様な充実っぷりとか、細部から本筋への飛躍のいい加減さとか呼吸とかがけっこう似ているかもしれない。
 で、いかにしてわれわれは「田紳有楽」を書くことができるか、どうすれば藤枝静男になれるのかという無謀な問いにちょっと立ってみる。この小説は途中語り手がどんどん入れ替わっていくのだが、それがなんだか一枚の絵を交代で描くようにつまり、ある語り手(イカモノの骨董や弥勒菩薩だが)の語りがその担当部分を描き終わると、今度はべつな語り手が登場してべつな担当部分(重なる部分はあるが)を描き込んでいく。そうして描き上がった一枚の絵の全体がストーリーになっているのではなく、交代にあらわれて描き込んでいくということそれ自体がストーリーなのである。
 だいたい一枚の絵として最後に全体を見渡せるかといったらそれは無理で、なぜならある語り手の描いた部分をべつの語り手が上書きして修正したり、あるいは同一の語り手の語りの中でも無雑作に書き直しが進行するので、全体というものが安定して姿をあらわすことは最後までない。そのかわり細部が異様にくわしく正確(に見える)な書かれ方をしているので、その細部のレンガのような積み重ねで小説としては奇形なまま成り立ってしまっている。作品全体をつらぬく柱のようなものは存在しない。ただ個々の語り手の披露するエピソードにはそれぞれに固有の強度があり、その磁場が作品に複数の中心をつくりだしてはいる。しくみとしてはそういうことだが、このしくみを成り立たせるにはまず魅力的な細部をつくりだすセンスが不可欠で、藤枝静男はまず文章がすごく変であってしかも読みやすくて異常に面白い。地の文と会話文の呼吸とか面白すぎてどうにもならない。その面白さを方法化して取り出して真似する、ことは絶対不可能ではないだろうが、ほぼ不可能だと思う。だから藤枝静男のセンスとはべつな種類のセンスがあらかじめある人が(根本敬のように)、部分的に「田紳有楽」の方法を取り入れると凄く効果的な場合がありそうで、たとえば複数の法螺話を一本にまとめるやりかたとして魅力がある。