『渡辺のわたし』斉藤斎藤

わたし、踊る。わたし、配る。わたし、これからすべての質問にいいえで答える。  斉藤斎藤

 斉藤斎藤第一歌集を読む。
 まとまりのつかない感想メモをだらだらと箇条書きにしてみた。このなかには今後斉藤斎藤論のキモとして発展させていく部分もあれば途中で捨てちゃう部分もあると思うけど、いまはとりあえずここまで考えているところというおおざっぱなメモです。
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つねに歌の背後に同一のキャラクター(作者?作中主体?話者というべきか)を想定して読む
字余りで早口な感じによって強調される口語っぽさ
でもどこか芝居がかっていて、いわば舞台にあがっている感じはする
ストーリーを構成してならべられていると、ついすいすい読んでしまう(これはいいとばかりは言えない)
(ストーリーの支配の強い章がいくつかある)
ばらばらに一首ずつ読むとあらためて一首のねじれに入り込むことができる
「引用」の多用
どこかで見聞きした言葉(CMコピー、慣用句、日常よく聞くせりふ、さまざまな場所の決まり文句、とか)、既視感をよびおこす断片が一首を雑踏のように出入りする
歌の上位にある話者の「キャラ」で全体が統べられているので、一首ごとの防壁は低くて開放されている感じ
個々の歌の確信犯的な無防備さ
歌を捨て石にしながら「キャラ」の前へ読者をつれていく道がある
つねに歌は「キャラ」のほうへ開かれている
「キャラ」は安定してゆるぎないが生身ではない
だがことさら「キャラ」のニセモノぶりが強調されたりはしない
だからかえって得体の知れないところがある
平易かつフラットな言葉にこめられた微妙なたくらみ
平易かつフラットであることや、ストーリー構成に目を奪われると微妙なたくらみを素通りしてしまいがち
素通りしたものを読み返して発見する→再読の価値とはそういうこと
微妙なたくらみを読み飛ばす読者には誤読されそう(かなり微妙なことを仕掛けている)
「キャラ」が個々の歌によって更新されないということは、個々の歌がつねに安定した「キャラ」のネタとして安定しておもしろがれる半面、「キャラ」じたいは徐々に消費されて古びていく可能性はあるかもしれない
「芸人」性?
作者が今後どんな戦略でいくのかはともかく、現在のやりかたは有効期限のわりとはっきりした方法のような気がするし、だからこそ現在においてきわめて有効な方法なのでは?
今どき短歌を、期限つきの戦略をそのつど立て直して勝負すべきものと考えないほうがどうかしている
(あるいは戦略に殉じるものと考えるか)
だが方法とか戦略のレベルの話とは別に、言葉のセンスとか批評性とか運動神経が圧倒的であることは重要
どちらかだけ持ってる人はほかにもいると思うけど、どちらを欠いても斉藤斎藤にはなれない
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 短歌をいま、言葉だけで、物語の力を借りずミクロで微妙でしかも決定的なたくらみを仕掛ける装置として使いきるにはどうしたらいいのか。このやっかいな問題を今後えんえん考えていくには斉藤斎藤の歌集がぜひとも必要である。あとがきのないこの本はけっして読み終えることのできない出口のない堂々めぐりだけど同じ景色が二度ともどってこない見晴しのいい一本道のあかるい迷路です。

「悪いひとじゃあないんだけどね」「けどね」「ね」と笑うぼくらの足もとに床

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