幽霊とは話にならない

 夏なので「幽霊」について考えてみよう。
 私の持論では、幽霊というのはみなどこかしら気が狂っている。完全に正気な幽霊というのはありえない。いたとすればそれはファンタジーの住人としての幽霊であり、ファンタジーというのは現実を反転させた空想界の出来事である。つまり「現実」の幽霊ではない。
 現実の(つまり現実に「目撃」されたり「実話」として語られている)幽霊はみなどこかしら言動がまともではない。ホラーというのはファンタジーと違い現実の延長にあるジャンルだから、ホラーに登場する幽霊も当然ながらみな多かれ少なかれ気がふれている。 
 ホラーがなぜ現実の延長なのか。たとえばファンタジーの原理をひとことであらわせば「不死」なのではないかと思う。それはあの世とこの世が地続きの世界である。対するホラーは、人間は必ず死するものだという前提の世界だ。あの世とこの世の境界が絶対化されていて、この世から見ると境界線の向こう側は真っ暗で何も見えない。われわれはけして境界線の向こうへ踏み込めないし、境界線を越えてしまった私はすでに私ではない。向こう側の闇の一部なのである。境界線のこちら側を「意味の世界」、向こう側を「無意味の世界」と言い換えてもいい。つまり原則としてホラーの住人は死の無意味性におびえている。ファンタジーがあの世まで意味をはりめぐらせ真の闇を駆逐しているのとは対照的だ。
 あの世からこの世へ。ホラーにおいて、そして現実において、死の無意味性を刻印されて幽霊はわれわれの生活にまぎれ込んでくる。かれらの言動はわれわれを大いにとまどわせる歪みをもっている。ダンプに跳ね飛ばされて死んだ国道で、事故死の場面を永遠にリプレイし続ける死者。失恋して首をくくったアパートの一室で、夜ごと鴨居にぶらぶら揺れ続けているだけの死者。自らを死に追いやった相手ではなく、たまたまそこを通りかかっただけの見知らぬ人間に執拗に怨みを訴えてくる死者。
 こうしたよく聞かれる幽霊の異様なふるまいは、かれらが死の無意味に侵された存在であることをよく示している。それなりに理由をもったふるまいではあるのだが(死んだ場所や死因への執着など)、われわれ生きた人間を共感させるには何かが大きく欠落している。その欠落がはてしない不安を呼び込む。
 かれらとは話が通じない。幽霊が恐ろしいのはそのためである。この世(意味の世界)に生きている限りひとまずは遠ざけておけるはずの死の無意味性が、われわれとよく似た姿をとって、けれど決定的に話の通じない相手としていきなり目の前にあらわれる。それが幽霊なのだ。いっけん人間(意味)の姿に似せてじつは死(無意味)がまぎれ込み、その意味ありげな言動に惑わされどうにか意味を読み取ろうとするわれわれを、ブラックホールのように無意味の側へ引きずり込んでいく。幽霊の怖さには、発狂することへの不安に通じるところがあるようなのだ。
 唐突だが、あらゆる「作品」もまた幽霊のようなものだと思う。