愛唱と反芻

 おとといの日付で「(短歌の)いわゆる愛唱性と再読性はおそらく厳密には矛盾する」なんてことを書いたのだが、よく考えたら愛唱性とは再読性を含んだものじゃないか、という気がしてきた。あの文章では読者による歌の「反芻」と同じ意味のつもりで「愛唱」の語をもちいているが、ふたつはやっぱり別モノで、反芻しやすいことと愛唱性にすぐれていることは違う気がする。だからあれは「反芻性と再読性は矛盾する」とでも書くのが正しいんだろうか。
 「読む」ではなく「唱える」場面における評価だとしても、愛唱性には「唱える」たびに生じる歌と身体との摩擦感のようなものが折り込まれている気がする。この摩擦によって愛唱歌はある意味「再読」されているのではということである。摩擦を最小限に抑えることで希薄化し、再読性(つまり通常の文学的価値?)を犠牲にして消化吸収性を高めていると思われる枡野浩一の短歌は、だから「愛唱性」が高いとは言えないかもしれない。くちびるではなく消化器官(もはや摩擦の感知されない体内)で味わわれている短歌なのではという想像である。