恐怖映像

夏の風邪は不快感が体調のものか気候のものなのか、境目を見失うところがいやですね。日本中の不快指数が私の風邪のせいみたいに思えかねないところが。
(これからしようとしてる話と関係ないけど、日本列島はどことなく人体に似てる、北海道が頭みたい、なところが国民の身体感覚を巨大ロボットの操縦席的に呪縛するところが、あるかもとふと思った。)


「世界大ショックシーン特集」
http://www.youtube.com/watch?v=UhChhybRB4s


id:sakapiさんのブログ(友だちはいません)で知った動画。恐怖映画のショッカー・シーンを集めた「水曜スペシャル」(という番組が昔あった)のビデオです。
これを見て思い出したんだけど、私が小学生の頃みたテレビで「この夏公開の恐怖映画特集」みたいなものをやってて、たぶんワイドショーか何かで。それに物凄く怖くてびっくりするシーン(というかカット)が流れたんですね。
同じ日に番組で見た「ゾンビ」のエレベーターのシーンも夢に見そうだったけど、それを上回る強烈な印象の映像だったのは、室内で小さな子供がむこうから走ってくるんだけど、親の腕の中にとびこむ寸前、いきなり裸の成人男性に変わるというものでした。そのタイミングというか、いつ来るか今来るかというサスペンスの前振りなしにまったく不意をつかれる感じが、まだ映像に対する耐性も低かった小学生の心にぐえっと消えない痕を残したわけです。
自分の中ではずっと怖い映像の代名詞となっていたそのカットと、偶然再会したのはそれから二十年後くらい。それはレンタルで借りたマリオ・バーヴァの「ザ・ショック」という映画でした。しかしこの映画の内容ときたら全然今では記憶に残ってなくて、子供の頃ワンカットだけで一生ものの呪縛に成功した映像が、一本の映画全体としては大人の私の心をほぼ素通りしていったのです。今思い出しても頭に浮かぶのは小学生のときに見た映像のほう。あらためて見直した同じカットは、よくできてるなあと感心はしたもののふたたび傷跡をえぐり直すには至らなかったのでした。


「ゾンビ」はその少し前にナントカ版が劇場公開されたのを見にいって、面白かったけどやはり小学生の時テレビの前でおぼえた窒息しそうな恐怖感はなかった。最近ビデオで見直してあらためて好きにはなれたけど、そのはじめて劇場で見た際にはどちらかというと失望に近い気持ちだったと思います。なんだあ、べつに怖くはなかったのかって。こんなもんだったのかーと。
これらの映画はまず初見が断片的な姿だったのに加えて、小学生でまだ表現物にも世界そのものにも無防備な状態で触れたことが、このような落差をつくりだしたとも思えるわけです。しかし大人になってからも似たような経験はあり、それはビデオ版の「呪怨」なんですが、以前深夜番組で「呪怨」の中の1エピソードがほぼ丸々流されたことがあったんですね。もちろん私は大人でしたし、それなりに恐怖映画、とくに日本のVシネ系の恐怖映像は興味もあって見ていたので、そうそうウブだったとも云えないわけです。にもかかわらず、これは凄いと思った。感心とかいう余裕の態度ではなく、じっさいに鳥肌立てながら自分の頭の中の狭いところに追い詰められるようないやーな恐怖を味わったのです。


それから数年後。ずっと気にはなりつつ見る機会のなかった「呪怨」をようやく借りてきて見ました。
たしかにこれは凄い、と思ったけれど私にはあの深夜番組で出会ったときのような当事者的な感覚がよみがえることはなかった。それは一度見てしまっていたそのエピソードが作品中のクライマックスというべきものであり、その部分をこそ未見で臨むことが本当は必要だったということかもしれません。だが私が考えているのはべつの可能性で、つまり「ザ・ショック」や「ゾンビ」の恐怖映像が私を呪縛したのと同じ条件として数えられるもの、それらはみなテレビで偶然見てしまった映像だったということが大きいのではないのかと。
こちらに十分映像に対して身構えるだけの余裕を与えず、一方的に暴力的に私の生活へ侵入してくる恐怖映像。それは地上波テレビというものが、ネットのようには選択肢を多く持たず、つまり「恐怖」というテーマをめぐって無数のチャンネルから選べるような環境ではなく、また少なくとも私の世代にとっては特権的な位置から情報を送り込んでくるメディアであったことから許されたありかただったと思うんです。
二度目の幻滅的な再会のほうを不幸と捉えるのでなく、最初の出会いの幸運の方をかみしめる契機だったと、この場合は考えるべきでしょう。ネットの進化にもゆるく乗り遅れ、テレビの進化からはもはや完全に降りてしまっている現在の私は、あのような幸福な恐怖映像体験というものが今後、どころか現在どのようなかたちで再生産されたりされなかったりしているのかさえ、うまく想像することもできません。ただ最近触れることのできた例でいま思いつくのは、ТVKなどで放映されその後DVD化(asin:B000FGG3VY)もされているTV版『「超」怖い話』を、番組表も見ないでたまたま合わせたチャンネルで、うっかり見てしまった小学生がいやしないだろうか、生涯消えないトラウマと「あのお爺さんみたいな少女の出てたドラマはいったい何だったんだろう」という謎を心の底にくすぶらせながら大人になってくれないだろうか、そしたらちょっと嬉しいな。というようなことです。
きれいなものときたいなもの、いいものとわるいもの、本当と嘘、正しいことと正しくないこと、が完全に棲み分けてる社会はつらそうで嫌だから、まじりあい、はみ出している場所があちこちに生じててほしい、といったようなことを思います。映像その他による恐怖体験はそういう塵ひとつないニ分法がふっとぶような、グレーゾーンの洪水を引き起こせるものだと思うんですね。





ネットで今最大かつ危ういグレーゾーンかもしれないYouTubeには「ザ・ショック」の予告編もありました。例のカットもどこかに入ってます。
http://www.youtube.com/watch?v=5NXoaGcEzSE