写すだけ。

ミクシィで最近書いた日記のうち本や映画の感想を、以下にいくつか転載。




絲山秋子『逃亡くそたわけ』を読んだ。うまくて、気持ちよく、おもしろい小説だった。
全体に作者のコントロールが行き届いているけど、頭の中で組み立てたという窮屈さはない。博多弁の博多女と、標準語の名古屋男が、精神病院を脱走して車で旅をする。その設定がおのずと川のように流れて行く先へ、言葉をおいていったように気持ちいい書かれ方。
無理に事件が起こされたとか、流れを変えたと感じることがなく、初期設定によって導き出されるものだけが(しかしその可能性をぞんぶんに引き出しつつ)書かれていると感じる。
変に深くならない、浅いままなのもいい。遠浅の海をずっと歩いていって、そういえば少し深くなったかな?くらいの感じが。
この作家を進んでまた読みたいか?というのは微妙なところだった。
きっと読んで頭に来たり、眠くなったりはしないし、いい感じに心地よくかつ刺激的なんだろうな。ということを予想するけど、そういう予想はあまり読書欲をそそらないからな、私の場合。
読みはじめたら一気に読んでしまうと思うけど。
うーん。






平山瑞穂『忘れないと誓ったぼくがいた』を読み中。
すごく好きだった前作『ラス・マンチャス通信』とは全然ちがうタイプの小説と聞いてたので、警戒をかくせないまま読み始めるも、文章の生理のようなものが二作は同じなのでそこを手がかりにすんなり読みにいける。装丁とか帯文を読む限りいっけん純愛ど真ん中っぷりだから、別な作者の本だと思ったほうがいいのかなーと思ってたがそんなことはなかった。ペンと紙のこすれる音が奏でる音楽(ペンで書いてないと思うが)の流れるうすっぺらな夢の空間が持続する、つまり『ラス・マンチャス通信』のあの魅力的な筆から出まかせのような感触がここにもあり、これがある限り話の筋なんてほんとは二の次である。
「小説に書いてある人」の、読者に姿を想像されたそばから消えていくそのはかなさが小説化されている、という側面は押さえときたい。紙の上のリアリティとしてはそれだし、読者の頭の中で「夢に出てくる知らない人」などの経験的なリアリティとそれは結びつく。

読者の頭に直接物語を書き込むタイプの小説は、読者のいる位置が移動するとスクリーンを失った映写みたいに、もう誰にも読めなくなると思うんですね。
この小説はそうじゃなく、物語はつねに紙の上で発想されていると感じられる。はかない人物の話だけど、そのはかなさには物質的な根拠がある。こういう小説が売れるのが難しそうなのは、もう小説が紙に書いてあることなんてみんな忘れたがってる、と思うからです。だが紙に書いてあるなら何も今読まなくたってずっとそこにあるという安心感がある。安心されたらよけい読まれなそうだけど、いつだって読めるものはいつか読まなきゃいけない。作者は神ではなく、われわれと同じ紙の前にいる人間であり、しかし書くことを許されているのは作者だけである。というこの倒錯が受け入れられない人には(神にすがりたい人には)、こういう小説は読めないかもしれないけど。






ロメロの「ダーク・ハーフ」。原作は読んでないけど、これは映像向きの話じゃないんではという気はした。ホラー的な見どころがわりと少ないし、なんかこう寓話的すぎるというかね。「小説家」にまつわるメタファーでできてる話なんだけど、そういうのってすごく小説的で、映画には邪魔だと思った。原作者が撮影現場を見張ってるような鬱陶しさがある。






私の嫌いな映画である「マグノリア」と「ALWAYS 三丁目の夕日」と「踊る大捜査線THE MOVIE」は何となく似ているが、その目的はそれぞれ異なるのだろうが見る者の感情移入をあてにした映画ばかりで、そういう映画がとても嫌いだということだ。とくに最近みた「ALWAYS 三丁目の夕日」はラーメン博物館みたいなテーマパーク性は愉しめるだろうと期待したが肩透かし。看板や車などをわざと汚くして、現在から見たS30年代のイメージを景色として捏造するもそれが実に「ほどよい」加減のぬるさで、ありえない町としてのニセモノ臭が匂わない。これはやばい。つまりこの映画は本気なのだ。どう本気なのかというと、「現在の日本」が局地的にターゲットにされたマーケティング映画として本気である。外国人や、他の時代の日本人はまったく相手にしてないくらい本気だ(ターゲットから少しでもずれたらこの映画はチンプンカンプンだと思う。私はターゲットにいるからこそ不快になるのだ)。クレしんのオトナ帝国とはまったく違い、ノスタルジーの毒性はそうと気づかれぬよう薄められ(だからテーマパークみたいにはノスタルジーに浸れないし、ノスタルジー中毒も起こさない)、現在の平均的日本人である観客の耳にあくまで心地よくメッセージを流し込むために使用される(この映画じたいがオトナ帝国の 20世紀博みたいな機能)。この映画がS30年代の人々のふりをして語りかけるメッセージは明快にしてたったひとつ。「心を失って金持ちになる未来より、たとえ貧乏でも人情のあるこのままの方がいいよ!」。
まるで字幕でずっと画面に掲げられてるみたいに露骨で、ずいぶん舐められたもんだなと思う。誰が、誰に、かは知らないが。
見る者がうしろめたさを感じず、まるで前向きであるかのように胸を張ってうしろ向きになれるようよく計算されたすばらしい映画だった。