断章と結末

一日一食にしたらなぜか読書がはかどります。
ゆうべは西崎憲世界の果ての庭―ショート・ストーリーズ』を読了。
断章形式で、はじめに語られた物語からのちに枝分かれした、複数の物語が入れ替わりに語られていきます(枝分かれという点を除けば四コマ漫画における『コージ苑』や『傷だらけの天使たち』のようなかたち)。
言葉少なというほどではないけど、冗舌ではないややきつめに結ばれた紐のような文章が、読むとほどけて読者の中で少し長くなる。そのほどける力によって先を読ませる感じの文章だと思いました。
散りばめてはいる謎を、しかしあまりふくらませず、語られていない部分がそのままの大きさであり続けるので、読みながらしだいに謎への興味は落ち着いてくる。謎解きへの期待というのは抑制されるのですね。そのかわりに、というか、それぞれの物語が断片のまま別の物語に切り替わるので、つねに宙吊りであり続けることになり、その「溜め」の部分で物語としての引力が補填されていきます。
私は断片的な文章、断章形式の本などが好みなんですが、そうした作品はテレビがCMに寸断されるみたいな弱みも持ちやすいと思うんですね。断片化した物語は私のような気の散りやすい読者にうってつけなんだけど、それは安心して気が散れる、ということでもあるので。つまり安心して読むのをやめてしまえる(中断のつもりで)というところがあります。
この作品は断片性への好みも満足させつつ、上記のような理由で「この先」への興味もずっと維持される。非常に魅力的な形式だと思いました。このスタイルの発見と採用によって作品としてはほぼ魅力を保証されていると思う。このスタイルの最高のものを読んだ、とまで(他との比較ではなく)思わず信じ込まされるようなある種の暴力的な筆致ではないので、そこが物足りないとも言えるけど、物足りないのはけして悪いことではない、とも感じます。形式を限界まで酷使するといった態度ではなく、また自ら謎の中に意味ありげに埋もれてみせるのでもない、作品の慎ましさのようなもの。そこにかすかに欲求不満を感じながら、おそらく多くの読者は最後まで解消されずに読み終えるのだけど、この慎ましさによって守られた繊細な刺激が小説の細部を充たしているわけです。
ネットで作品の感想を少し調べてみたところ、細部の刺激にうまく反応できなかった人ほど、この作品の特異なスタイルが何か劇的なカタルシスをもって収斂するのを期待し、結果肩透かしを食うことがあるように思いました。逆に細部に比重をおいて読むと、スタイルはあくまで細部の刺激を保証する装置という読み方になる。私もそう読んでいたつもりでしたが、途中から物語は枝分かれをやめ安定的に並行してゆくので、「この先」への興味がやや比重を上げてくるんですね。そのため終盤は複数の「この先」を最終的にすべて堰き止める結末部の(幻の)存在感が無視できなくなり、ちょっと無いものねだりの態勢をとってしまったきらいがあります。結末が売りのドラマはあまり好みではないのに、結末への期待に引きずられやすい私という読者、の矛盾を露呈したかたちとなります。
全体に印象的な場面の多い佳作であるだけでなく、断章形式で小説を書くこと、そして小説における結末の問題という実作での二つの関心事を考えるヒントと刺激、も少なからず受け取ったという気がします。