カルヴィーノの小説は読んだことがない

イタロ・カルヴィーノカルヴィーノの文学講義』読み中。気になる部分を抜き書き。

言ってみれば、ペンを執って書き始めた瞬間から、言葉が、書かれた言葉が問題になって来るのです。初めは視覚的イメージに釣り合った言葉を探すこと、ついで最初の文体の調子を首尾一貫させる展開を心がけるというように。こうして次第次第に言葉が主役になってゆくのです。言葉の流れがいっそうぴったりとゆく方向へ物語を導くのが文体だというわけで、視覚的な想像力のほうはその後についてゆくだけになるのです。(p143)

 出来合いのイメージのますます激しくなるばかりのこのインフレーションのなかで、紀元二〇〇〇年になお幻想文学は可能なのでしょうか? 今日の私たちにもすでに見えている、可能な開かれた道は二つでしょう。(一)すでに利用されたイメージを、その意味を変えて新しいコンテクストのなかで再利用すること。ポスト=モダニズムは、マス=メディアの想像力の産物を皮肉なやり方で利用するか、あるいは文学的伝統から継承した驚異の趣味を、その異化作用を際立たせる語りのメカニズムのなかに導入しようとする傾向と見なすことができます。(二)あるいはゼロから再出発するために真空をつくり出すこと。サミュエル・ベケットは、まるで終末の後の世界とでもいうように、視覚的な要素と言葉を最小限のものにして、実に驚くべき結果を生み出しています。(p153)

ほかに「散文では出来事が韻を踏む」というような意味の文章があって気になったけれど、どこに書いてあったか見つからない。



翻訳された文章は読者が読みながら勘を働かせ、頭の中で修正を加え、書き換えながら読むものだと思う。だからうまく勘が働かない場合はろくに読むことができない。読みながら気を利かせて内容を先取りしながら読むのだ。そのため自分の関心や知識からずれた話題になると、いくら読んでもまるで頭に入ってこないこともある。関心や知識の範囲の広い人ほど翻訳を読むのが得意にちがいなく、私はかなり苦手なほうだ。
カルヴィーノの文学講義』は、です・ます調で書かれているので敷居が低い感じがする。講義用の原稿だから言い回しもべつに難しくないし、難解なテクニカルタームが出てくる訳でもない。それでも読んでいて全然内容が頭に入ってこない箇所は多い。翻訳された日本語に独特の回りくどさのため、私が論旨からたびたび置き去りを食らうせいだろうか。上に引用したような部分はもともと大いに関心ある話なのですんなり頭に入ってくるし、面白い。
これは実物ではない、あくまでそのふりをしたニセモノだということを、いわば「化け損ねる」ことによって誠実に示しているのが直訳型の悪文な翻訳だと思う。だからすべての翻訳が、隅々まで意訳の行き届いたきれいな日本語になるのがいいとは思わない。