私は花粉症ではないが、この季節になるとくしゃみと鼻水が止まらなくなり、喉がいつもイガイガしている。だが花粉症というわけではない。そう確信するのには理由があるが、今はそれが思い出せないだけだ。毎年同じ症状にみまわれ「今年こそ花粉症かもしれない」と疑い出すのだけれど、「やはり花粉症ではなかったらしい」という結論に至ってその年の花粉シーズンを終える。その点だけは覚えているので、私が花粉症ではないことは過去の自分を信頼する限り正しいのだが、なぜその結論に至ったのかが思い出せない。過去の日記をさがせば書いてあるような気もするが、めんどうなのでさがさない。思い出したところでどうせ来年には忘れるし、忘れても毎年何かのきっかけで気づくから同じことなのだ。


ほかにべつに書くことがないので、mixiに書いた日記を転載します。


ボリス・ヴィアンの短編集『人狼』を勿体ないのでのろのろ読み続ける昨今、YouTubeBETTY BOOPを見てたら「ボリス・ヴィアンってアニメっぽい」とゆうことに気づいたという話です。
http://www.youtube.com/watch?v=TlvgBDeS88k
これがとくべつヴィアンぽいというのではなく、アメリカのアニメってみんなこんなだよなあと思い、それがヴィアンを読んでて頭に浮かぶ映像とよく似てるなあと思った。読んでて生身の人間が思い浮かばないわけです。

じっさいヴィアンがアニメ見てたのか知らないけど、アメリカ文化好きだったし、生きてた年代(1959年に39才で死んでる)考えると、きっと見てたのだろう。
ヴィアンの小説で蛇口からウナギが出てきたりするシュールな出来事や、登場人物たちのコミカルなアクションはアニメのリアリティに支えられてるような気がする。

私がライトノベル的なものに、なじめなさを多く感じ実際ほとんど読まないながらもどこか強く惹かれてしまうのは、ヴィアンと共通するその部分に理由があるような気がする。
ディックもアニメではないけど、テレビ番組のリアリティに依拠して小説を書いてるきらいがある。アニメやテレビ(あるいは、テレビとりわけアニメ、というべきか)の性急さ、短時間で視聴者のコンセンサスを取り付け、ドカドカと矢継ぎ早に快感を与え、あっという間に終る。その呼吸をなんの断りもなく当然のような顔で持ち込む、そうゆうタイプの小説に私は弱いのだと思う。そうゆう小説はふつうの小説にはない特別なスピードがあるのだ。


最近自分がいま何歳なのかわからなくなることが増えた。
現実から目をそむけようとする無意識、が脳の中の年齢欄にこっそりボカシを入れるせいだろうか。
または、実際にこの世の中で一年がたつスピードと、体内時計で測る一年とのあいだに大きな齟齬が生じているのかもしれない。
まだ一年経ってないはずなのにどんどん誕生日が来るので、こんなになってしまった自分の年齢に体感的に納得がいかないわけだ。
体感年齢でいうと三十二、三才くらいでとまってて、その一年のあいだに残りの誕生日が全部きたかのような感覚。
それは三十二、三才までは順調に年を取っていたということでもある。その頃に何があったのだろう。
それとも当時は二十五、六才のつもりでいて、今になってようやく三十二、三才の自覚が遅れて訪れただけだろうか。
とにかく自分がいま三十二、三才だと思うと何となくしっくりくるのである。

まだ六才くらいの誤差だからいいが、このまま実年齢とのギャップが広がり続けたらどうなるのか。実害が出る前に、どこかで体感年齢の引き上げをはからないといけない。
でも「二十歳のつもりの六十歳」は周囲に迷惑かもしれないが、「三十二歳のつもりの七十歳」はべつに許されるというか、どうでもいいこととして社会に無視されるような気がする。
つまり年代的にそういう「どうでもいいエリア」に入ったことで、自分の年を見失っているのかもしれない。
だから自分が七十歳なのだと思えばそうなのかなという気もしてくる。
本当に七十歳になったときには、五十歳くらいのつもりにはなってると思うが。


MXテレビでウルトラセブン。なんか最近忘れてばかりでひさびさに見た。今夜は「ひとりぼっちの地球人」という回だった。冒頭、机の陰にかくれる宇宙人のチラ見せの何気なさにおっと思い、これは演出うまい人の回かも。と思って身を入れて見始めるとぐんぐん引き込まれる。ソガ隊員の婚約者が地面に倒れたとき散らばったバックの中身の、手鏡にウルトラ警備隊の車の接近が映るさりげないカットとか。あとたしか場面が変わるカットつなぎで、両カットの構図似せてるのとかあったはず。そういうどうってことない(ドラマが大きく動くポイントじゃないし、実相寺演出みたいなケレンでもない)部分がいちいち的確な感じ。夜の大学キャンパスのミニチュアセットで、セブンとプロテ星人が戦う場面もよかったな。名場面として語り継がれるような目立つ演出じゃないんだけど、プロテ星人(の幻覚)が消えたり現れたりするタイミングが、なんか微妙にタイミング外してリアルだった。教授に化けて日本語しゃべってるときの宇宙人もやぼったくなってない。本来のプロテ星人の姿になると一切言葉を発しない(変な音は出す)のもいい。とにかくやぼったいとこのないスマートな演出で、逆にこれ見よがしな気取りもないし、ここぞというツボもはずさない。すごく好きなタイプのセブンだと思った。監督は満田かずほという人で、有名な最終回も演出した人らしい。かずほという字は「禾」に「斉」と書くのが本当です。