『てのひら怪談2』を1/10読みながら(その7回目)

「怖いビデオ」崩木十弐

私が怪談に求めてやまないのは、単に恐怖とか不思議といった言葉では片付けることのできない、落しどころのない不安定な感情を惹き起こされることです。
そのためか、何も怖いことや不思議なことが起きないのに怪談としか言いようのない読後感を与える話、というのを怪談のひとつの究極形として偏愛するところがあります。つまりそれが怪談であるという決定的な証拠が見つけられないにもかかわらず、怪談にしか見えない、というタイプの怪談ですね。一話に濃厚に漂うあの世の気配の、出所がはっきりそれと分かるように書き込まれていない、どこから気配が来るのか確信が持てない。そういう作りの話にひどく惹かれてしまうということです。
その方向で読める魅力的な作品として、去年の応募期間から怪談大賞ブログで注目していたのが崩木十弐さんの「お見合い」という作品でした。
http://blog.bk1.jp/kaidan/archives/002537.html
これはべつに怪談としてではなく、たとえばありふれた日常のスケッチのようなものとして読むことが可能で、そこをたまたまちょっとした背筋の寒くなる出来事(ただし怪談的な意味でなく)がよこぎる話として読んでもいいわけです。
というか、書かれていることの表面だけを見ればそういう話ですね。日常のフレームの中ですべては起きている。にもかかわらず、何か目を合わせてはいけないようなものがこの些細なドラマの背後にいる、その気配を感じ取らずにはおれない。
たぶん作中人物にして語り手の「私」もその気配の一部を感じているのだが、彼のいる場所ではやはりこれが怪談として体験されているとは言えないでしょう。つまり語られた一話をすべて外から眺める読者の位置に立ってはじめて怪談に見えてくるわけです。「私」の感情を追体験するのではなく、「私」のいる風景の全体を見渡す視点によってはじめて背筋にあらわれてくる寒さがある。「私」の体験そのものが怪談なのではなく、それが一話として差し出された全体の風景が怪談なんですね。
写真を眺めている者が、被写体の気づいていない背後に怪しい人影をみとめてしまった瞬間のように、一話がにわかに怪談として目の前に立ち上がる瞬間に読者は立ち会ってしまう。あるいは別な読者に言わせれば、怪しいものなど何処にいるのか、何も見えないじゃないかという話になる。それゆえ見てしまった私のほうも、自分が見たものに確信を持つことができない。これはだから怪異についての物語というより、怪異そのものとして読者に読まれようとする怪談だといえます。気配はあきらかに作中の「私」ではなく読者の私のほうに顔を向けている。怪談のひとつのボーダーラインのありかを、ここだと指し示している魅力的な作品だと思います。


こちらも怪談としてボーダーにある話ではありますが、道具立てとしては「怖いビデオ」の方には怪談らしいアイテムがかなり揃っているといえるでしょう。
にもかかわらず、そのどれもがこの一話が怪談である証拠となることを、周到に避けるように描かれています。いかにも怪しい人物が次々と登場するミステリのように、しかし最後まですべての怪しさが宙吊りのまま一話は閉じられる。そもそも真犯人を特定しなければならない事件など存在したのかどうかさえ不明なままです。
この場合もっとも怪しいのはタイトルにも掲げられている「怖いビデオ」=ワイドショーの怪奇特集のビデオ、だということははっきりしています。作品の怪談性を保証するアイテムとしてもこのビデオが中心にありますね。しかしその内容は「すでに死んでいる歌手が出演していた」こと以外わからないし、「すごく怖かった」ことの印象しか残っていない。“すごく怖い映像”を作中に空白として示すのは話術としてはむしろ正攻法というか、「すごく怖かった」という作中人物と読者の感想に齟齬が生じては成り立たないこういう話の場合、むしろ具体的に描くのは危険なわけですが、その空白の画面そのものが大写しになるようなこともなく、ビデオがあくまで微妙に話に関わり続けるあたりの呼吸も好ましく感じました。もしここに“事件”が本当にあるのなら、このビデオは真犯人であるよりむしろ“消されてしまった決定的な証人”のようなものかもしれない。
作品の背後に暗示される“事件”とは違い、個別の事件はたしかに具体的なのですが、それぞれがどこかに空洞のような部分を抱えてもいる。その空洞をトンネルのようにつないで事件が並べられ、空洞の道を歩むように語り手「僕」は一話を語っていく。その道はまっすぐな見通しのいい道ではなく、折れ曲がり、道幅も不揃いに見えるけど、それがたしかにひとつながりの道筋に見えるような視点を「僕」が持っていることは分かります。何か「僕」をその視点に立たせることを裏打ちする、語られていない確信のようなものがあるはずで、そう思って一話を眺めれば、火事で焼けてしまったあのビデオ、その不在の映像に目が留まるわけです。
これだけたしかな配置によって謎と謎を守り抜く装置を語りきっている以上、最後の一文はやや蛇足のようにも思えますが、それはそれで肩に載せられた謎の手首を囲むマル印のように、一話を怪談に定着させるのに必要な手続きなのかもしれません。


『てのひら怪談 2 ビーケーワン怪談大賞傑作選』
ポプラビーチ週刊てのひら怪談