『てのひら怪談2』を1/10読みながら(その6回目)

「使命」水棲モスマン

この作品が巧いと思ったのは、レストランの看板絵の取り扱い方です。牛がナイフとフォークを握って、同類の肉を前に笑顔を浮かべる絵。鳴き声に由来する、何のひねりもないだじゃれ台詞を書き込まれた、キッチュな看板絵。この絵をわれわれは、どこかで見たことがあると感じる。本当にすっかりそのまま同じ絵はたぶん見たことがないけど、なぜか何度も見てきたかのようにありありと頭に思い浮かぶ。これはそういう紋切り型の絵なんですね。
あらかじめ紋切り型としてわれわれが共有するイメージをまず冒頭に呈示する。しかるのちに、その絵に異変を上書きする。そういう手順がここでは効果を上げていると思います。いちいち頭に浮かべるのに時間のかかるイメージであれば、異変も鮮やかには行かないわけです。少なくとも八百字では読者の頭が追いつかないと思う。
また見慣れたもの(主人公にとって)が異様なものに変化するという物語上の事件も、それが紋切り型のイメージの上に起きることで、われわれ読者の頭の中に棲みついているイメージが直接書き換えられるような感触をともなうんですね。絵空事ではなく、その意味では読者も事件に直接巻き込まれているわけです。


説話上の効率だけにもし注目するなら、呈示されるイメージは紋切り型のものではなく、たとえば(この作品との辻褄は完全に無視しますが)マクドナルドのマークとかキティちゃんとかアントニオ猪木の顔みたいな、実物がそのままわれわれの頭に記憶されているイメージで同じことをしても、同様の効果を上げられるはずなんですよね。
しかしここはやはり紋切り型でなければならないのだと思う。参照するオリジナルの記憶がない分、紋切り型のイメージというのはじつは想起ではなく喚起であり、単に思い出したよりも文章の中では強い印象を残すのです。この作品で言うと「牛が笑顔でナイフとフォークを持ってステーキを食べようとしている」「牛の鳴き声がだじゃれに使われている」といった紋切り型情報の“言葉”の組み合わせが、われわれの頭の中で映像を作り出している。あくまで言葉によって作品の中に喚起されている。紋切り型というのはたとえイメージであっても半分は言葉に属しているわけです。だから言葉だけでできている小説とは相性がいい。
映像そのものが記憶になっているものを扱ったほうが直接的なように思えるけど、小説は言葉でできているから映像は直接小説に居場所を持つことが出来ません。映像を想像するとき読者はいったんテキストの言葉の並びから意識を離してしまう。それでは小説を読む意識と地続きのところで怪異を引き起こすことができない。映像的な怪談で肝心なことは、いかに読者が映像を見るかのようにあくまで文章を読むか、ということであると思う。あるいは、映像の説明や描写そのものは怖いけど映像は正しく思い浮かばない、というのでも構わないのだが、映像が正しく思い浮かべられないと怖くならない、というのではシナリオであっても小説ではないので、小説はあくまで言葉の側でできることだけをするのだということです。


看板に起きた異変の一部、というか肝心の部分(予言内容)が作中に書かれていないところも二重の意味で賢明な判断であると思いました。
ひとつは言うまでもなく、あえて謎にすることでそれが何だったのかと読者の想像を促し読後に余韻を残す効果があるからですが、もうひとつ、看板絵に異変が起きるということ自体の怪異がここでは印象的なので、その上さらに来るべき災厄まで具体的にイメージされてしまうと、八百字の中では少々うるさくなり、焦点がぶれた可能性があると思うんですね。印象がばらけてしまったかもしれない。
作品は最後、怪異に遭遇した後の主人公の行動や、看板撤去後の跡地の様子にまで触れているけれど、それらはあくまで看板をめぐる怪異の余韻のように語られているので、作品の核をぶれさせるものではないようです。
むしろ怪異の衝撃が静かに引き伸ばされるようでもある。なんらオチをつけるのでもなく、作品が微妙に引き伸ばされる感じ、が悪くないと思います。八百字という字数の中で、ぎりぎり許される無駄を書き込んだともとれるような最後の一行も、私は好意的に読みました。
小説というのは基本的に無駄を書くべきものだと私は思っているので、八百字というのはその意味で小説としてボーダーラインを踏んでる気配ありありなんですが、たとえ掌編でもこういう一行を置くことこそが本当は小説の役目なのかもしれない。
前半でも「店がつぶれたら、そこには新しい店が入るものだ」という断言が妙なユーモアを漂わせていて、そういう変則的な怪談を狙ったというほどではない、あくまで正統的な怪談の余白に書き込まれたごく微妙な脱線に見えるところがいいなと思いますね。
こういうのは文章に出る一種の人柄のようなもので、つまりそういう“文章柄”(人柄を直接反映したものでないのは言うまでもありません)が生かされた作品になっているのではないかと思いました。
それから、看板の異変を見立てている妖怪の名を作中一度も書き込んでいないのも、ここでは正しい選択だと思います。
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