『てのひら怪談2』を1/10読みながら(その5回目)

「カミソリを踏む」朱雀門

この作品は一人称の、ほぼ現在形だけで書かれています。
一人称の語りには“語る私”と“語られる私”という二人の私が発生することはわりとよく知られていますね。
選手と実況アナを一人で同時に務めるみたいな「私」の役割の分裂が起きるということです。つまり今まさに渦中にあって自ら状況を受け止めかつ行動する私と、そうした状況や行動を逐一作品の外にいる読者に向けて報告する私、というちょっと並び立たない二人の「私」が、程度の差はあれ共存するのが一人称で語られる散文なわけです。
しかしたいていの小説は過去形で書かれてるので、この分裂が目立たない。
つまり文中で「私」が直面してる状況はすでに過去のものであり、今は渦中を脱して余裕を持って「私」はそれを振り返っている、というように読めるのが過去形の文章だからです。
過去形にすることで「私」の分裂という矛盾が減殺され、読者はあまりそれを意識せずに読むことができるというわけです。


では過去形ではなく、一人称の現在形で語られた小説はどのようなものになるのか。
その場合でも「私」がただ近所を散歩して、路傍の花やお空の雲を眺めているだけならどうということはありません。「私」には十分みずからの見たもの、経験しつつあることを実況中継する余裕があるはずだから。
しかし語られるのがもっとのっぴきならない状況ならば。たとえばなぜか目の前にカミソリでできた道があり、そこに「私」が一歩を踏み出しつつ自らそれを語る場合、われわれの現実に照らせばこの「私」は悲鳴とかうめき声を上げるのに精一杯で、とてもまともな実況中継役が務まるとは思えない。
だが次の一歩、さらに次の一歩と連鎖的に酷くなる状況を「私」自身がきわめて冷静に的確に描写し続けるとすれば、この「私」のいる場所はわれわれの現実とは違うようだという感触が生まれてくるわけです。
描かれている経験自体も悪夢的ですが、のみならず、そういう自分を同時に客観視している視線、というありかたが悪夢的というか夢的です。夢の中で酷い目に合う自分をもう一人の自分が眺めている、かのような「私」のあり方がここでは生じている。
超短篇作家のバリー・ユアグローがやはり一人称現在形を使って悪夢的な状況を描き続けていますが、その作品が示すのもただでさえ非現実的な状況ばかりだけど、一人称現在形の使用でさらに現実感は失われ、しかし現実とは別種の生々しさがかもしだされてくるというものです。これが悪夢そのものの感触に近くて、悪夢を見ているように読者は作品を読むことになる。
この「カミソリを踏む」の場合主人公のいる場所が地獄を思わせるということもあり、上記のような主体の分裂はここでは、地獄に落ちた魂をその魂の持ち主自身が眺めているような印象も与えていますね。
あるいは逆に、肉体が被っている拷問を魂が外から眺めているような。
とにかく一人称に潜在する分裂した二つの「私」が、この作品の地獄を単なる絵空事にせず、また単にリアルなだけの残酷描写でもない、まさに地獄や悪夢といったもうひとつの現実を生きるにふさわしい奇妙な主体をつくりだしているということです。その点を確認しておきたい。
一人称現在形の語りは分身的になるということですね。これはドッペルゲンガー譚のナラティブに採用したりしても効果を上げると思う。


作者の朱雀門出さんの去年のビーケーワン投稿作では、実は「プリオン的」という作品が「カミソリを踏む」以上にすごく好きでした。
http://blog.bk1.jp/kaidan/archives/002664.html
何とも不穏で落ち着かない気分にさせられる傑作なので読んでほしいんですが、(600を超える全投稿作を読んだわけではないけど)去年の作品中私の読んだ限りでは一、二を争うくらい強烈に印象に残っています。
『てのひら1』のプロフィール欄にURLの載っていたご本人のサイトでも大量の創作及び実話怪談が読めます。
ビーケーワン投稿作と較べると全体に仕上げはやや粗い気がするけど、その分磨かれる前の原石のようなざわっとする不安や奇想のカタマリを無造作に差し出してくる話がゴロゴロ転がっていて、いつ読みにいっても私の中の怪談魂あるいは恐怖魂が確実に刺激されます。怪談好きならタイトルをクリックするたび胸が騒ぎ続けること確実です。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/2764/index.html

てのひら怪談〈2〉ビーケーワン怪談大賞傑作選