『てのひら怪談2』を1/10読みながら(その4回目)

「磯牡蠣」有井聡

この作品の魅力を一言でいうと「実話的な迫力」とでもいうべきものでしょうか。
西暦や固有名詞、バカ牡蠣という馴染みのない言葉などが説明無くいきなり並ぶ。怪異もその流れで当然のことのように描かれる。いちおう不思議な事件として語られてはいるんだけど、どこかその視点が偏っているというか、よく分からない納得とともに揺るぎなく語られているんですね。その納得を共有する集団が読者側から見えない。でも背景にあるという気配がするわけです。
第一回目に書いた分類でいうと民俗学的怪談(という命名が適切かはともかく)に当て嵌まる作品と思います。この本のもう一方の主流である精神分析的怪談が「一見無意味なものが意味ありげにつながることで恐怖が生じる」とするなら、民俗学的怪談は「一見無意味なものにも全てあらかじめ意味があり、ただ、その意味が外部からは見えないことで恐怖が生じる」というタイプ。『遠野物語』の怖さなんかが典型ですね。
このタイプの怪談として「磯牡蠣」の怖さは『てのひら2』中で頭ひとつ抜けている感がある。
そもそも民俗学的怪談は怖くなりにくい、という印象が私はあるんですが、それは怪異との距離感が登場人物と読者では異なる、という民俗学的怪談のたぶん最大の特質をどう扱うかという問題があって、そこでほとんどの書き手は作品の恐怖を減じる方向に(たぶん無意識に)舵を切るんだと思う。
つまり作中どんなに(読者の常識に照らして)恐ろしいことが起きても、登場人物たちがそれを何らかのロジックで納得しているのを見ると、読者も納得はできないまでも「あ、そんなに怖くないものなんだ」と安心する。登場人物にある程度感情移入して読ませる物語であるかぎりそうなります。外部から見た民俗世界の不気味さは、内部の人の目線になると当然薄れてしまうから、もしそこで怖さを優先するなら読者を外に立たせ続けなければいけない。
そういう小説として私は深沢七郎の「楢山節考」(怪談じゃないけど)などを思い浮かべますが、そういえばこの「磯牡蠣」の語り口にもなんとなく深沢七郎的なところがあるような気がする。
この語り手のクセのつよさには読者の感情移入を拒むところがあります。だから読者は、バカ牡蠣をめぐる物語を語り手に感情移入してその視点を借りてたどるというより、今まさにこの得体の知れぬ人物が目の前でバカ牡蠣の話を語っている、というそのことの生々しさのほう、この語り手の主観の実在する気配のほうをつよく意識してしまうわけです。
この作品は(物語が創作か実話かにかかわらず)その点においてきわめて実話怪談的なのだと思う。


実話系の怪談というのは「誰にでも降りかかる恐怖」と「誰にも理解されない恐怖」という二つの矛盾したベクトルを抱えているようなところがあります。
前者をきわめると集団の不安をなぞったいわゆる都市伝説と重なってくるし、後者の突き当たりでは個人の主観に取り込まれて妄想や狂気の領域にも踏み込んでいく。というところがあってそのバランス取りの不安定な危うさもまた魅力だと思うんですね。
どちらにも偏り過ぎない辺りでバランスを見つけてたいていは書かれているわけです。
(余談ですが、平山怪談の登場が画期的だったのは「狂気に片足突っ込んだ恐怖体験が誰でも自分に降りかかったかのように読める」という点だと思う。矛盾する二つのベクトルが畳まれ、先端が重なったみたいなありえない状態を作り出したわけです。…かつて新耳が百物語の形式を強調することで断片を断片のまま並べてみせ、対する超怖は怪談ファンのサークル的な親密さによって新耳的な断片性を支えたという面があって、いずれも実話怪談の景色を一変させるものだった。平山さんは後者のサークルに紛れ込んだ怪物というか、肉声が支える語りの場に強靭な匿名的形式を再度もちこんだようなところがあり、新耳と決定的に違うのはその匿名性がイコール強靭な作家性でもあったことだけど、そこは今でもなぜかスルーされがちな点です。余談終り。)
でも八百字制限で実話系をやる場合、この矛盾するベクトルのバランスを取ることはあきらめて、一方の極にぐっと特化した方がうまくいくんではないかと思うんですよね。
というのはバランスのために読者に取り付ける合意に、八百字から字数をやりくりするのはかなりきつい。だったら片方に特化してしまえばいいとして、それが具体的にどういうことになるのかはあまりイメージできてないですが、「磯牡蠣」をその成功例と見ることが可能かも、と思いました。
小池壮彦さんの実話怪談で時々あるのが「体験を語る人物が生々しく描写されるほど、その体験の信憑性が怪しくなる」というパターンで、それを敢えてやるところが小池さんの独特な立ち位置を示して面白いんですが、これにはかなり短い話でも強烈な印象を残すという効用もあるんですね。「磯牡蠣」にもそういうところがある。
市井の人物というのは実はなかなかに複雑で理解不能なものなので、彼らの語る「実話」もまた彼ら同様の曲者であり、事実か嘘か錯誤かというすっきりした分類にはなじまない。そういう市井の人物の不気味さや迫力を見せることも怪談の範疇なのだと思います。幻覚とか妄想とかいったそれはそれでわかりやすい怪異の落しどころではなく、そこらへんに普通にいる人々が信じがたい体験を語るということの意味を考えさせ、しかし答えは出ないというのが実話怪談を読む面白さのひとつと思いますが、ふたたび確認しときたいのはそれが短い字数になじむ、たぶん八百字で書けるだろうということについて、です。
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