『てのひら怪談2』を1/10読みながら(その9回目)

「橋を渡る」峯岸可弥

作者の意識が行き届いた、隅々までコントロールされた文体で書かれていると感じた作品です。
とくに目を惹くのは読点が使われてないことと、冒頭の一文だけが過去形で、残りはすべて現在形で書かれていることの二点ですが、特に後者は作品を読み解くのに重要なのではないかと思う。
現在形の文章には、つねに世界の突端に爪先で立っているような、特有の不安定なぐらぐらした感覚が生じます。そのため夢の世界などを描くのに効果的だったり、あるいは描かれたものがおのずと夢幻味を帯びてくるということがある。
つまり作品冒頭に示される「鼻削ぎが現れた」ことのみが一話において確定した揺るぎない前提であり、あとのすべての出来事は現在形特有のぐらぐらした状態に置かれ続けているわけですね。
書き出しの過去形の一文は、現在形で描かれるこの不安定な世界に投げ込まれた唯一の確定事であり、また逆にいえばこの一文以外のすべてが不安定な状態におかれることで、冒頭の一文の確定感が保証される、強化されるということでもあります。
つまり冒頭の一文VS残りの全文、という対立図式がここにはあり、対立することによって両者はそれぞれの性格をいっそう明確にしているといえるでしょう。
そのような構造をもつこの作品が、物語内容においても「VS(ヴァーサス)」という状態、つまり「鼻削ぎ」と「鼻のない男」の対立を描いているのはしごく当然の事態であり、またその際橋のうえから動かずひたすら鞠をつくばかりの鼻削ぎと、みずからの姿を一話の中で変化させ続ける鼻のない男、というキャラクター造形の対照もまた「過去形VS現在形」というこの作品のテーマを反映しているといえるかもしれません(「鼻削ぎ=過去形=不動」VS「鼻のない男=現在形=変化」)。


この「橋を渡る」のようにわれわれの日常の知識や常識に根拠をもとめないタイプの作品の場合、作品みずからの内部に根拠をさぐり、物語が言葉を、言葉が物語を、あるいは言葉が言葉、物語が物語というように内側で支えあうことで作品としての強度を得ていくわけです。
それは本当は小説ならどんなタイプの作品であろうとそうであって、作品内部にいかに自らを支える根拠をもつか、というところで作品としての強度が測れると思うんですけれども。ただリアリズムに逃げ道のある作品の場合、作品の外に根拠を見いだして支えとするというごまかしも利くわけで、実際世の中の少なからぬ小説はそのように書かれてもいる。そういう目くらましがまったく利かないのがこの作品や以前に取り上げた「厄」のような非リアリズム的な書き方だと思うわけです。
両作がいずれも我々が眠りの中で経験する混沌とした世界を彷彿とさせるのは、夢というのがまさに内部に閉じられた状態で、自らを自らで支えあう世界そのものだからなのでしょう。そういえばこの作品の最後の一文などは何となく漱石の「夢十夜」にそのまま出てきてもよさそうな文章という気がしますね。


また、たびたびここで述べてきた“精神分析的怪談”としての性格をこの作品も持っていると思うんですが、むしろややあからさまなまでに精神分析的、というかフロイト的な主題がドラマ化されているとさえいえる気もします。
フロイトがはたして鼻と男性器を結びつける言葉を残しているかは知らないのですが、鼻と男根の形状を云々する俗説を念頭に置くと、「鼻削ぎ」と「鼻のない男」のセットでの登場は去勢不安をめぐるドラマを思わせるし、勝利した鼻のない男が最後に「首を大きく振り上げそのまま石になってしまう」ところなどは、メドゥーサの首を見て石化する人々に「勃起」を読みとったフロイトの言葉を引き寄せて読んでみたくなってしまうところです。
しかしこの鼻削ぎにはフェリーニの「悪魔の首飾り」に登場する鞠をつく少女を思わせるところもあり、あの映画の場合は鞠が露骨に生首を意味していたわけだけど、鼻削ぎ=去勢者はこの「橋を渡る」ではあえなく敗北するので(余談ですがその敗北のあっけなさも「夢」っぽいと思う)、こっちの鞠は鼻削ぎの手を離れると「ぼやけ」たうえ「程なく消える」ことになるのかもしれない。つまり彼が鼻削ぎ=去勢者であることを証明する品であるところの、かつての戦利品(?)の鞠(=生首=去勢された男根)の消滅を見届けたうえで、勝者である被去勢者「鼻のない男」は晴れて石化=勃起を遂げる、という物語をここからは読みとることができる。
このようにきりのない深読みに誘い込む力がここでは作品の強度とほとんどイコールであるといってよいでしょう。簡単に作品の外と出入り可能なゆるい細部が見あたらない、外に逃げ道をつくらない非常に内圧の高い言葉でつくられた作品であり、その意味できわめてフェアな正々堂々たる作品であるということもいえると思う。夢っぽい世界が描かれているのに細部がつねに明晰、読み違える余地のないクリアな文章なのに作り出される世界は混沌としている、というこの作品の持つ幅の大きさは読者にとってもきわめて風通しがよく、つまり作品の構えが揺るぎないがゆえにかえって読者を自由にするところがあると思います。
しいていえばその風通しのよさ、自由さがこの作品の怪談性をやや希薄にしている気はしますが、この非凡な作品にとってそれは大した問題ではないでしょう。


てのひら怪談〈2〉ビーケーワン怪談大賞傑作選