『てのひら怪談2』を1/10読みながら(その10回目)

ようやく十作目となります今回。開始からだいぶ時間かかってしまいましたが、これで最後です。
一作取り上げるごとに、何か自分の中で怪談や掌編小説について日頃から考えたいこと、について一つずつ考えてみる口実にしようと思っていたのです。が、どうにもそっちのほう(考えたいこと)のストックが切れてしまい話題がしだいに重複気味になり、結果中途半端に作品分析のマネゴトのほうへ逃げてしまいがちだった点について、私はたった十個も(怪談や掌編について)考えてみたいテーマを持ち合わせてないのか? 考える足場がそんなにないのか、とやや暗澹たる気分です。しばらくは書くことより読むことに比重をかけて物考えるように意識してしてかないと、このまま脳味噌が干上がりそうな予感がひしひしとしますね。

「よそゆき」飛雄

この「よそゆき」という作品には本書の中でも特筆すべき気味の悪さがあるんですが、私見では、この不気味さは同じく『てのひら2』掲載者であるクジラマク氏の作品のそれとどこか通じるところがあります。
いずれも私が勝手に名づけているところの“精神分析的怪談”を特色とする作者だと思うんですが、未掲載の作品も含めて読み比べると、クジラマク氏が笑いと紙一重のところで不気味なものを描く作家であるのに対し、飛雄氏はユーモアに接近しつつも紙二重ぐらいの距離を置いている感があり、作品にどことなくどんよりした薄暗い印象が漂っているように感じられます。
ややアッパーないわば日常から一段持ち上がった悪夢であるクジラマク作品と較べて、飛雄作品のほうはなんとなくいわゆるダウナー系の低く漂う悪夢を思わせる。それは文体の声の低い感じというか、声色をつかわず地声で語っている感じが理由のひとつかもしれません。


単行本未掲載の作品「いちご人形」などにも言えることですが、この無意味で不気味なエピソードのつらなりにはかなりユーモアに接近している感はあるわけです。
ただ無意味さが(たとえばクジラマク氏の作品が多くそうであるように)笑いに解放される直前まで張り詰めていくのではなく、淡々と積み重ねられた末ひとつのいびつな矢印のようなものに凝縮してぺたりと紙の上(モニターの上)に落ちている、とでもいえばよい状態でしょうか。
その矢印の差す先にひろがっているのは空白なんだけど、空白は矢印に示されることで何か本来そこにあるはずのないものがぼんやり見えてくる。そういう気配が生じているという作品ではないかと思います。


作中にあえて情報を書き落とした空欄をつくって読者に埋めさせる、というのと似ているけどちょっと違うんですね。あくまで作品はひとかたまりの矢印になることに徹していて、空白じたいは作品の外にあるわけです。あるというか、ないというか。まあ、何もないから空白なんですけれども。その何もない空間を作品が指さしているような状態なんですね。
だからこの作品は、けっこう寓意がわかりやすく出ているのに、その結果たどりつく空白が言葉で簡単に埋められない。語り手の妹と母親の隠された確執の露呈(“裏返しの母親”との遭遇がその契機となる)というほとんど読み違えようのない寓意とともに運ぶ流れにもかかわらず、そして読者のたどりつく空白が濃密な気配で充たされるにもかかわらず、それは言葉への置き換えが困難なのです。
寓意が作品の目的の位置にないというか、あくまで無意味な細部をひとつの作品として固定するために寓意が使われているように見える。このあたりは微妙な印象の差なんですが、結果として作品を不気味なものにしているのはこの微差の部分だと思うのです。
つまりいいかえると、この矢印がどこを指すかはおそらく、作者自身にも書き上げてみるまでわからないのだと思う。


そういう書き方が掌編だけに可能なものとは思わないけど、あらかじめ意味的な落しどころを定めず書き始めてしまえるのは、書き手にとって掌編の効用のひとつであり、私自身その効用をあてにして書いているところがあります。でもこの作品のような矢印はどうしても書けない。作品の外に先端を向ける前に力尽きて、作品の内部で何かを指さしてお茶を濁してしまうか、あるいは矢印の形をなしていない散漫な文章にしかならない。この作品の凄いところは無意味さを凝縮するのに文体的な圧力をほとんど使ってないようにみえるところです。これは小説なのだよ、文学なのだよという磁場を文体で張り巡らせ、その中で無意味さを生きのびさせようというのは私自身がやりがちなことなんだけど、漠然と読者として希望をいえばそういうのはあまりよろしくない。読者が無意味なものにふれたときにおぼえる怖さ、を損なうやり方ではないかと思います。


しかし八百字という字数の中で、文体のバリア抜きでこのような作品が書けてしまうというのは、たった数分のうたた寝にもきちんと悪夢を見るような資質抜きには不可能なことでしょう。それと同時に、文体ではない“文章”のいっけん目立たないが確かな力量がなくても成立するはずがない。
おそらく怪談というのは文体よりも文章が支えるべきジャンルであり、それは個性的な文体があってはだめだとか、いわゆる“名文”的な文章でなければならないという意味とは違うのだけど、どちらかというと文体の問題に誤解されがちなジャンルであることを踏まえつつ、あくまで文章の問題として怪談を考えてみるべきではないか。
つまり怪談という言葉から連想される文体、を持ち込むことでなんとなく怪談性が保証されるという感覚が書き手にも読み手にもあるけど、文学風であれ実話風であれ、文体にばかり意識が向かい過ぎている気がするんですね。すでに怪談のイメージをまとった文体の模倣を是認するにせよ、見たことのない個性の確立にこだわるにせよ、問題がどうも文体方面にばかり偏りすぎている気がしてて、それよりまず読者に恐怖や不気味な感触を与える作品において、文章がその部分部分でどう機能しているのか、あるいは機能しそこねて恐怖や不気味さを取り逃がしているのか、といったところを見ることのほうに意味があるのではという意見です。
そういう文脈において眺めても、この飛雄氏の作品はきわめて示唆に富んでいると思う。ほとんど目立った文体的個性を振り撒くこともなく、しかし怪談としての強度は図抜けている作品はいったいどのように成立しているのか。容易に作家性というしっぽをつかませない、逆にいえば読み手が作家性という名の壁にぶちあたりにくそうなこのニュートラルな言葉の構えは、怪談を文章の問題として今いちど考え直してみる現場として、どこよりもふさわしいものではないでしょうか。

てのひら怪談〈2〉ビーケーワン怪談大賞傑作選