残雪「蒼老たる浮雲」より

 老況(ラオコアン)は母親の怒りをひどく恐れていた。少しでも怒られると脅えてどうしようもなくなり、つらくてもう、生きていけないような気がした。その日の晩、老況(ラオコアン)は悪い夢を見た。寝ていたベッドをだれかが下から抜き取ってしまい、身体が宙に浮いたまま、落ちるに落ちられないのだ。
「何を死に物狂いでばたばたやってるんだい?」母親が隣でたずねた。
「ベッドの下に野良猫がいて、やたらに這いあがってこようとするから、おどかしてるのさ」
「胸の中で語録をとなえなさい」
 月光が経かたびらのように地上に落ちていた。


(「蒼老たる浮雲」残雪(『蒼老たる浮雲』近藤直子訳・所収))