さっき、たくさん犬の出てくる夢を見ていた。
それはあかるさがなつかしさに曇っていて少し苦しいタイプの夢だったような気がする。
おそらく今年最後に見た夢ということになるだろう。
今年と来年の区別には何の意味もないことはいうまでもない。
私はいつも今年にしかいることはできないのだ。
来年の夢は来年の私が見るものであり、今年の私がそこに追いつくことは永遠にない。
犬は大きなものも小さなものもいて、つながれずに歩きまわっていた。
私は犬にとくべつな愛着はない。だから友達になれる余地はあるのだともいえる。犬に。

内外

ツイッターを休止したのはひとことで言うと「このままだとツイッターで一生を終えてしまう」と思ったからである。
それも悪くないかもしれないが、そんな一生はあっけないほど短いのではないかと思ったのだった。
だからツイッターを手放すことで人生の質を全体的に上げていろいろなことを回復しようと考えた。私は自分のツイートを読むのがとても好きなので新しいツイートが読めなくなるのは残念であるが、なぜ私が自分のツイートを読むのが好きかというと、私のツイートは私が面白いことを考えたり書いたりするエネルギーを24時間体制でしぼりとられていった結果だからであるとわかった。
そしてその24時間は、多数の他者の内面をつねに覗いているのだと感じさせる24時間でもある。
私はかなりのヒキコモリ体質であるので、他者の外面にまったくふれない一日などまったく珍しいものではない。つまり内/外の他者の登場バランスを著しく欠いているのである。
まるでテレパシーのように考えていることが目に飛び込んでくるのが普通だと思っていると、じっさいに会ってみるとその人が何を考えているかなど何時間一緒に過ごしても文字にして一文字分もわからないのだということがわかってびっくりする。
そしてそのことは素晴らしいことだと思う。目の前にいる人間というのは考えていること以外のあらゆることを丸出しにしてそこにいるのだ。
というわけで私は私が何を考えているか分からない世界に帰ってきたのではないか。

耳には心があり、口にある心とそれが重なっているように見える。でも耳から入ってきたものが口から出ていくことはない。鳥の声を聞いてそれを真似ることは、心が一つである証拠にはならない。となりあう心が震えてみせただけでも、それほど似ていないその声の説明に十分だった。私は何か長くなりそうな川だなと橋をわたりながら思い、ひきかえすと、大きな自転車が流されてくるところだった。それは人間が乗るにはサイズが大きすぎ、最初の自転車はこんな大きさだったのかもしれない。豊富な水量で押し流されてくるペダルがからからと鳴り、肋骨の隙間をいつも流れている風と音楽を音量だけが下げていて、水かさは上がり続けていて、自転車から落ちた生き物はここまでは運ばれてこないのである。魚の中にもかしこくて死を怖れるものがいる。私がここだ、と思った駅はからっぽで折り畳まれた芋蔓のほかを子供が食べている、その心に蠅に囲まれた先生が来ていて、顔をふちどる川の光の上流。いつも滝になっているつま先の、たった一本たれさがっている鎖に下から結んでいく小さい花。旅のせいで心が出ていってしまったシャツを思いどおりに体の中でかわかしていった。

「わたしは天国に雇われている」
わたしのかたる言葉は天国の意志を地上で響かせるための訳語だ。
わたしの空腹は天国に空きが出ていることを体を使って示している。
地獄には定員がなく、だからたいていの者は地獄に落ちていくのだが、天国に空きが出ればわたしが何かを食べた時、その食べられた物が天国の言葉としてさし示しているあなたが天国の扉の前に立つことになる。
「そんな話を朝までしていたんですよ。ほかには何もしちゃいないんです、そういう楽しい関係じゃないんです」
男の両目はまばたきのたびに左右入れ替わっていた。
そのことに気づいているのももちろんわたしだけである。
わたしのほんとうの意志は、その場所を天国にあけわたしてあの川のほとりの日なたにころがって時々猫にくわえられている。
今朝は棘の多い草の根元で、ゆうべの雨の雫をいくらか浴びながら目を覚ました。
男の両手は拍手のたびに左右入れ替わっている。
わたしはその毛深い手首を同時に掴んでしぼりとるように泣いたのだ。