雨がふっているうえに夕方なのだが、明日してもいいし午前中や昼してもよかった洗濯を今している。
洗濯は好きではない。だいたい洗濯や掃除はどれも嫌いで、私の洗濯や掃除は色でいえば灰色だ。
そのどんよりした行為、具体的には脱水槽がちゃんとまわらないので洗濯物を入れ直したり、と調節につとめる私のうしろを近所のモルモン教の人たちの自転車が二台通り過ぎていった。

このことからもわかるように、私の洗濯機は屋外にある。
その結果、なんとグーグルストリートビューにも記録されているのである。
世界中の人たちが注目する洗濯機(二槽式)である。

朝起きたら、気管と耳管と腸管がうずうずする感じだった。
どれも管だ。
体温調節に失敗ぎみの一夜が明けると、あちこちの管がうずうずするのである。
これは教訓である。


ツイッターに書くのとここに書くのの最大の違いの一つ(って最大なのかそうじゃないのか)は改行ができると言うことだ。
改行はものすごい情報量だ。
私はこれまであまり改行をしなかったが、こないだ本の原稿を書いたときはかなり意識的に改行をつかった。改行じたいに語らせると言うことを意識した。そしたら改行はたいそうよく語るのである。
いっけん同じ改行でも、ひとつとして同じ改行はない。
などということを今さら思ったのだった。

なにごともなかったようにふたたび書きはじめる。そしていきなり宣伝をしますが宣伝のために再開したのではなく、何がということもなく文章がなんとなく書きたいときに書ける場所をあけておく、部屋の鍵をあけておく、ようなつもりで二年八ヶ月ぶりに窓あけて空気入れ替えるつもりで書いているのです。
さいきん、本を出しました。

実話怪談覚書 忌之刻 (竹書房ホラー文庫)

実話怪談覚書 忌之刻 (竹書房ホラー文庫)

急に再開したここをいま誰が見ているのか、その中に怪談が好きな人がどれくらいいるか分かりませんが怪談の本です。でもいわゆるコアな怪談好きの人以外にもわりといける本ではないかと著者の私(拙著の著者、を略してうっかり拙者と名乗りそうな気分でしたが)は思いますので、本人で恐縮ですがオススメしておきたいと思います。日常の隙間にパシャッとシャッターを切ったような四十五篇。竹書房ホラー文庫より、平山夢明さん監修によるFKBシリーズの一冊として刊行されております。


そして宣伝しているうちに最初になにを書こうとしていたのかを忘れました。もとよりたいしたことではないはずなので思い出す努力はせず、まるで宣伝のために再開したかのようなムードが消えないまま、ひとまず鍵は開いた。

はじめて降りた駅

落雷でPCが破損し、一ヶ月以上ネットを離れている。数日の禁断症状を乗り越えると、この状態(ネットにおいそれとは繋げない毎日)が「正しい」状態だと感じるようになった。すると一日はちゃんと24時間あるし、本は読めるし、昨日と今日は違うし、私は私だし、あなたはあなたなのである。つまりネット常時接続になる以前の、五年くらい前までの世界がちゃんと今もあった。驚きである。
ネットを完全に断ち続けるのは、今この国に生きる貧乏人には難しい。ぜいたくすぎることだ。いずれ戻ってしまうだろう。その時のために、ネットの利用を大幅にコントロールすることを今から予定している。このブログはたぶん閉じると思うが、今しばらくこのまま放置しておく。


作家・翻訳家の西崎憲さんのサイト「はじめて降りた駅」というウェブアンソロジーの企画があった。「その駅で降りたのははじめてだった」という内容の一文で始まる作品、という縛りの募集で、私は「潮干狩り」という小説を載せていただいている。
このところずっと思い描いていた書き方、自分にちょうどいい小説の書き方がはじめて実践できたように思う。これからはこういうふうに書いていくのだ、という指標になる作品が書けたと、自分では満足している。こういう企画がなければ書くことができない小説だった。

文章について/モンタージュについて(Twitterより)

文章について ■ 2009年09月19日(土)


岡安恒武『湿原』読みちゅう。図書館にあった。
posted at 10:01:09


私は詩(現代詩)を独立した作品として読む読みかたがわからないので、ずっと続いてる文章の一部を切り取ったもの、のようにしか読めないんだけど、そうゆうふうに読めば少なくとも“好きな文章”で書いてある詩だけは読める。
posted at 10:04:01


岡安の詩もアンソロジーでちょろっと読んで好きな文章だった。文章=文体とそこにのっかるイメージの質、かな?
posted at 10:05:33


短歌を読むときはこういう「文章読み」と、「作品読み」の併用、または切り替えかな?
posted at 10:11:32


小説は最近ほとんど「文章読み」にかたよってる気がする。これは自分が「文章」は書きたいけど「作品」は書きたくない、というきもちの反映だと思う…
posted at 10:15:04


「作品」はめんどくさくて窮屈なんだもの。
posted at 10:15:29


おもしろい(笑えるという意味ではない)文章がずらずらと続いてて、どっか適当なところで切ってあればそれでいいじゃん?と同意を求めるような気持ちで読みにいってるから、「文章読み」をしてるのだろう…。
posted at 10:21:27




モンタージュについて ■ 2009年09月20日(日)


DVDで「HANA-BI」みた。公開んとき以来だから11年ぶり?そんな経つのか
posted at 12:30:20


たけしはモンタージュの映画なんだよなあ(長回しの映画とモンタージュの映画があるということにして)、と思い出しながら、いろいろ考えはじめてしまう刺激が脳にびんびん来た>HANA-BI
posted at 12:58:02


ショットとショットの間にある時間と空間は、つねに事後的に(それらのショットをある文脈に位置づける視点=距離が得られてはじめて)確定するのだけど、それも本当は仮の確定であって、実際には確定していない。
posted at 13:09:41


何かを見つめる男の顔のショットがあるとする。次に荒野が映し出される。観客はそれを男の見ている景色と受け取る。荒野には一本道があり、一台の車がゆらゆらと陽炎にまぎれて近づいてくる。男は車を待っていたのか?やがて車は画面を大きく占めて止まり、ドアが開く。車から降りてきたのは男自身だ。
posted at 13:41:20


そこで明らかになるのは、男の顔のショットと、荒野のショットの間には時間と空間の隔たりがあったということ。顔のショットに風景のショットをつなげば、それは人物の主観だというのが映像の約束事だけど、それはいつでも破れる約束だし、またそ知らぬ顔で律儀に守ってみせることもできる。
posted at 13:46:39


ショットつなぎの約束というのはそもそも映画の原理としてあんまり底のほうにあるものじゃないので、それを破っただけでは映画は壊れないし、むしろ何かもっと底の方にあるものが露呈してくることさえあるということ。かな?
posted at 13:53:02


ショットつなぎこそが原理だ、と信じてる人のつくるモンタージュ系の映画はつまらんわけです。
posted at 13:54:26


二つのショットの間に(約束事を介して)つけられた関係が、いったんほどかれて、ふたたびべつの関係に結び付けられ直す。このとき、最初の幻に終わった関係も残像のように観客の頭に残るので、そこには実際に(物語として)存在する以上の時間と空間のひろがりが起きている。
posted at 14:06:07


モンタージュの豊かさっていうのはそういうことじゃないかな?ドラマのサイズ以上の時空間をつねに撒き散らしていくこと。
posted at 14:08:19


小説を書くとき、自分の中には「長回しのほうが偉い」という感覚があって、でも自分はどうやらモンタージュ向きみたいで、なんか負い目みたいのがあったと思うので、モンタージュの再評価みたいなことを自分の中でしてみた。(比喩的な意味で。)
posted at 14:11:58


「モンタージュの小説」=文と文のあいだの伸び縮みやねじれに重心のかかった小説、くらいのイメージ。
posted at 14:25:16

090819

ひざに載せたまま自動車学校になりそこねている交差点に夏草が繁る。向こう側が見えない。そう文句を垂れながら、ねじがゆるんだように立ち上がる私の影。影の喉元に深々と埋まるナイフの柄の浮き彫りを、誰かのゆびが離れることさえ寂しい夏がある。私と夏は同時にひとつの名前で呼ばれるべきである。