文章について/モンタージュについて(Twitterより)

文章について ■ 2009年09月19日(土)


岡安恒武『湿原』読みちゅう。図書館にあった。
posted at 10:01:09


私は詩(現代詩)を独立した作品として読む読みかたがわからないので、ずっと続いてる文章の一部を切り取ったもの、のようにしか読めないんだけど、そうゆうふうに読めば少なくとも“好きな文章”で書いてある詩だけは読める。
posted at 10:04:01


岡安の詩もアンソロジーでちょろっと読んで好きな文章だった。文章=文体とそこにのっかるイメージの質、かな?
posted at 10:05:33


短歌を読むときはこういう「文章読み」と、「作品読み」の併用、または切り替えかな?
posted at 10:11:32


小説は最近ほとんど「文章読み」にかたよってる気がする。これは自分が「文章」は書きたいけど「作品」は書きたくない、というきもちの反映だと思う…
posted at 10:15:04


「作品」はめんどくさくて窮屈なんだもの。
posted at 10:15:29


おもしろい(笑えるという意味ではない)文章がずらずらと続いてて、どっか適当なところで切ってあればそれでいいじゃん?と同意を求めるような気持ちで読みにいってるから、「文章読み」をしてるのだろう…。
posted at 10:21:27




モンタージュについて ■ 2009年09月20日(日)


DVDで「HANA-BI」みた。公開んとき以来だから11年ぶり?そんな経つのか
posted at 12:30:20


たけしはモンタージュの映画なんだよなあ(長回しの映画とモンタージュの映画があるということにして)、と思い出しながら、いろいろ考えはじめてしまう刺激が脳にびんびん来た>HANA-BI
posted at 12:58:02


ショットとショットの間にある時間と空間は、つねに事後的に(それらのショットをある文脈に位置づける視点=距離が得られてはじめて)確定するのだけど、それも本当は仮の確定であって、実際には確定していない。
posted at 13:09:41


何かを見つめる男の顔のショットがあるとする。次に荒野が映し出される。観客はそれを男の見ている景色と受け取る。荒野には一本道があり、一台の車がゆらゆらと陽炎にまぎれて近づいてくる。男は車を待っていたのか?やがて車は画面を大きく占めて止まり、ドアが開く。車から降りてきたのは男自身だ。
posted at 13:41:20


そこで明らかになるのは、男の顔のショットと、荒野のショットの間には時間と空間の隔たりがあったということ。顔のショットに風景のショットをつなげば、それは人物の主観だというのが映像の約束事だけど、それはいつでも破れる約束だし、またそ知らぬ顔で律儀に守ってみせることもできる。
posted at 13:46:39


ショットつなぎの約束というのはそもそも映画の原理としてあんまり底のほうにあるものじゃないので、それを破っただけでは映画は壊れないし、むしろ何かもっと底の方にあるものが露呈してくることさえあるということ。かな?
posted at 13:53:02


ショットつなぎこそが原理だ、と信じてる人のつくるモンタージュ系の映画はつまらんわけです。
posted at 13:54:26


二つのショットの間に(約束事を介して)つけられた関係が、いったんほどかれて、ふたたびべつの関係に結び付けられ直す。このとき、最初の幻に終わった関係も残像のように観客の頭に残るので、そこには実際に(物語として)存在する以上の時間と空間のひろがりが起きている。
posted at 14:06:07


モンタージュの豊かさっていうのはそういうことじゃないかな?ドラマのサイズ以上の時空間をつねに撒き散らしていくこと。
posted at 14:08:19


小説を書くとき、自分の中には「長回しのほうが偉い」という感覚があって、でも自分はどうやらモンタージュ向きみたいで、なんか負い目みたいのがあったと思うので、モンタージュの再評価みたいなことを自分の中でしてみた。(比喩的な意味で。)
posted at 14:11:58


「モンタージュの小説」=文と文のあいだの伸び縮みやねじれに重心のかかった小説、くらいのイメージ。
posted at 14:25:16