『てのひら怪談2』を1/10読みながら(その2回目)

「厄」松本楽志


この作品は『てのひら2』の中では比較的読者を選ぶというか、広く流通するタイプの書き方ではない小説ですよね。
批評用語としては間違った使い方だと思うけど、「厄」はリアリズム小説ではない、という言い方を仮にしてみようと思います。それで話を進めてみたい。この本の収録作のほとんどはリアリズム小説である、という前提でです。


小説には物語がある。物語というのは、われわれが生きているこの世界の景色や法則をデフォルメしたものであり、それは現実とよく似てることも多いけど、時には幽霊や妖怪のような非現実的なものが小説に登場しても、平然と受け入れるし、好きに暴れさせてびくともしない、そういう空間ですね。
この空間=物語空間が一定以上確保されている小説をリアリズム小説と呼ぶことにします。
この空間はとても頑丈なので、怪談だろうがSFだろうが普通はみんなリアリズム小説です。どんなへんてこなものを持ち込んでも、空間としてはべつに揺るぎないわけですね。


しかし小説には、物語とはまるで異なる次元の力学も働いている。つまり言葉そのものがひしめき縺れ合う現場の力学、のようなもの。それがどんな小説の中にも働いているのです。
この場合の言葉というのはおもに視覚的・音韻的なものであり、つまり物語だって小説であるかぎりそもそも言葉で語られてるんだけど、物語のほうにまとめ上げられていくのはおもに言葉の“意味”の部分であって、本当は文字の視覚的印象とか、文章のリズムとか、単語の響きなんかも物語を読んでる読者に同時に届いてる。だけどそっちは無視しないまでも重視はしない、というのがここでいうリアリズム小説のスタンスなわけです。ほとんどの小説は、だからリアリズム小説ということになる。


それに対し、言葉そのものの次元で起きるできごとに比重を置いた書き方、というのもあるわけですね。
そのばあい言葉の視覚的・音韻的な性質や、あるいは言葉の意味は意味でも水面下にあってふだんはわれわれの意識にのぼってこない水準での意味というか、つまりひっくるめていうと、われわれの無意識が応接する水準での言葉、ということになりましょうか。
それが小説を動かす重要な要素になってくる。で、物語空間のほうは相対的に小さくなる。
そうなった状態が非リアリズム小説であり、まあ、一般的には難解でとっつきにくいものとされているわけです。
非リアリズム小説は、物語の因果律とはまったくべつの法則で言葉がつづられたり話が運ばれるわけですね。
それを読んで無意識が刺激されて気持ちいいと感じるか、まったく訳が分からないと思えるかは、読者側の資質と作品のできばえ、また両者の相性に大きく左右されるんじゃないかと思います。


この「厄」という作品はそういうタイプの小説だ、ということが言いたかったわけですが、これだとまだ前提の話にすぎないので、長くなってますがもう少し続けます。
「厄」は前回のクジラマクさんの作品とも通じるような、精神分析的な作品という側面があると思うんですね。ただ、ここにあらわれる不吉だったり不安だったりする事物は、その出自が物語にあるのではなく、もっと表面的な言葉の(おもに視覚的な?)次元にあるという気配がするわけです。
たとえばこれは「厄」というタイトルの小説だけど、描かれるのは「厄」という概念ではなく、どちらかというと「厄」という文字を主題にしている小説のように読めます。
二行目に唐突に出てきて説明もない「歯ぎしり団地」という言葉は、「厄」という文字が人の口腔を横から断面で見たような形であるのとたぶん無関係ではないし、「ブランコ」「鉄パイプの柵」「鳥居」の登場も「厄」の字面にどこか促されているかもしれない。「柵のパイプが折れてる」のは「厄」の字の右下に見られる隙間や撥ねのせいかもしれず、ここでとうとう本文中にも登場する「厄」の文字は、折れたパイプから取り出された紙に書かれた、つまり物語の中でも「厄」という文字そのものであったりもする。


…この方向でもっとしつこく細部を拾ったり、またそこからいろんな深読みにも持っていくことができそうですが、今は作品分析というより雑多な考えごとがしたいので、このへんにしときます。
とにかく作品を動かしているのが、一種の書字感覚のようなものだということですね。「「厄」の字の一番入り組んだところがこの公園なんだ」という一文に露骨でさえありますが、「厄」という文字を何度もなぞり直すようにして書かれている。そういう作品なんだと思います。
すべてが「厄」という字の中で起きている出来事のような。
で、こういうタイプの小説の弱点というか宿命として、読者を選ぶだろうと思うわけですが、幸いなことにというか、これは掌編です。掌編であることの効用のひとつに、読者を選ぶタイプの作品であっても敬遠されず最後まで読まれやすい、ということがあると思うんですね。


小説は映像とかマンガなどと較べて、受け手のより能動的な参加が要求されるジャンルですよね。
だから非リアリズム的な作品はどんなジャンルでもマイナーではあるけど、小説の場合はそれがまた顕著というか、「わけがわかんなかった」という感想さえもらえないことが多いわけです。
しかし掌編であることによって、とりあえず最後まで読ませてしまう。わからないと思えば読み返すこともたやすいし、そのようにして何らかの感想を持つところまでいきつく読者が、たとえばその十倍の文字数だったときとは比べ物にならないほど多いに違いない。
ということを思うわけです。これは掌編論という文脈からの読みですね。


最後に怪談論の文脈から少しだけ。
話し言葉ふうにくだけて呼びかける文体が、怪談としてはボーダー上にありそうなこの作品の怪談性、を補填している気がします。
そもそも怪談の定義としてジャンル論の叩き台になるようなものを私は知らないのですが、怪談を書くことにはジャンルとしてのそういう曖昧さを逆手に取る面白さがあると思う。
ただ現状の八百字怪談には、そこで積極的に独自の定義を打ち出すというより、何となく八百字という“定型”に守られて、怪談論を留保したまま作品を手放してしまっているケースが多いような気がする。少なくとも私にはそういう苦い自覚があります。
その点この作品には、あえてボーダーにあるものを怪談として差し出すための戦略が感じられると思います。怪談をネガポジ反転させて、ここにない怪談を想像させようとしているようにも見える。そういう読み方もできるんじゃないかなという気がします。


てのひら怪談〈2〉ビーケーワン怪談大賞傑作選
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