ドラえもん土左衛門の響きの似ていることはよく言及され皆さんご承知の通りですが、ドラえもんというネーミングをこの世に送り出し固定する際に根拠というか土台として、土左衛門という既成の言葉が使用されたことは送り手や受け手の無意識内のできごととして、疑えません。あたらしいことを受け入れるには、それを受け手がうっすら「知っている」必要があるから(作者というのは発想の最初の「受け手」でもある)。その際ガスと水でふくれあがった水死体の外貌(死体を好まない私は写真ですら見たことはないですが)さえも、猫型ロボットをああいう丸こい(実際の猫的でない)体型に設定する際の言い訳というか味方として無意識は採用したつもりでいたことでしょう。まった実用的でない(たとえば作者による「誕生秘話」のたぐいに語りようがない)採用ですが、無意識のすることといえばたいがいそんなことばかりです。現実的じゃない。


週三日ペースで働くだけでもう精神が軽くゆるく壊れかけているらしく、夢をよく見ます。目覚めた時「たった今まで夢を見てた」と分かることはふだん私は多くないのに、ここのところほぼ毎回そういう目覚めで、そこから現実を受け入れるのに時間と距離がかかります。この、まぶたがあいて現実を受け入れるまでの時間が一日でもっとも不快かもしれない。現実というのはどうしてこうも、私の頭の外にばっかりあるものか。すべてを室内(頭の中)で済ますには私の部屋はせますぎるし、どうしたってちょくちょく出かけてこなければならない。その往復の心の安定のために平山夢明せんせいの『[rakuten:book:12073415:title]』をきのう帰りに買ってきました。きもちわるい現実と折り合うには現実逃避でなく、現実破壊でもない、現実変形のちからのあるもの(それはとても稀少です)を身近に置く必要がある。現実変形とは私の変形でもあります。夢のさめ際に奇妙な形の橋が架かっている必要があるのです。それは私と現実の両方からのびてくるはずです。


気温がぐっと下がってから部屋に蚊が増えたようで(暑い盛りはあまり見なかった)、明け方に耳元をぷーーんと飛んでいくのが蚊は好きらしい。
そして起きて私は蚊取り線香に火をつける。部屋の中でなにかが燃えている、というのはいいことか悪いことかと言ったら、まちがいなくいいことのほうなので、蚊が出るのもけっして悪くない。