語彙とストロー

私は自分がないので、そのとき目の前にいる気に入った人を自分だと思って、よくあとを尾いていってしまう。たいていすぐに「これは自分じゃないな」と気づいてしまうけど、長い間気づかずにいられたり、あるいは次々と自分のような気がする背中に出会えたりすることが、私が迷子にならないためには必要なことだ。だがそんなふうにうまくいっている期間はみじかい。そしてそれはしかたのないことだ。



私が自分を見失うのは、自分の語彙を見失うということでもある。
私の語彙はいったいどこにあるのか。それは気がつくとすぐに見当たらなくなるけど、もともとは私の読んできた本の中にあったものだ。べつに全部を読み返す必要はないが、大体この本とこの本をさらったら現在おちいっている“自分の見失い方”への処方としてふさわしい、といった勘が私はぜんぜん働かないのが困ったものだ。それくらい私には、かつて読んだ本の印象を生々しく思い出す力が乏しい。人と較べて人生でものすごく少ない冊数しか読んでいないのだから、片っ端から読み返せばそのうち当たるんだけど、片っ端から本を読む力もなかなか漲ることがなくて、とくに自分を見失ってるときなどはぼんやりと憂鬱になっているから尚更である。


よしもとばななの『デッドエンドの思い出』を読み終わり、その読後の印象というより、読み始めてすぐ思ったことだがよしもとばななデヴィッド・リンチに似ている。もっと似ている人は(どちらも)ほかにいるとは思うが、その似ている点というのは作家が文章(映像)の現場につねに立ち会ってコントロールし続けているという感じで、それはあまりいい意味で言うわけではない。作家が途中で姿を消しても作品が勝手に残る、という気がしなくて、作家と読者(観客)のあいだに無駄な雑然とした広がりのようなものが生じないタイプのように思う。作者の特別なセンスで隅々まで管理されている作品という印象がする。


だがデヴィッド・リンチの作品は私はかなり好きだし、非常に刺激的だし、何かイメージが乗り移ってきて勝手に育ち始めるような気配を感じる。そしてよしもとばななデヴィッド・リンチほどではないが、読めば刺激を受けるところのある作家だ。じっさい最近は本を読んでもあまり何かそれについて書きたい気が起きなかったのに、よしもとばななの文章を読んだら書くべき言葉のかたまりのようなものが出来て、ついでにそれを引っ張り出すヒモのようなものまで頭の外に垂れてきたようなのだった。
単にものすごく面白いとか呆然とするとかくらくらするとか、そういう本だけじゃなく、読むとそれほど目の前の景色に変化は起きないけどなぜか自分の中に文章が生じてくる、そういうタイプの本を読む読書があるということを、あまりにも本を読まない私はついつい忘れっぱなしでいるのだ。
よしもとばななの本をひらいても、たぶん見失われた私の語彙はそのページの上には見つからない。ただ、私が自分の底のほうから言葉を吸い上げるために、ちょうどいい長さと太さのストローのような役割をそれは果してくれるらしい。そういう意味で、自分を見失ったときにはよしもとばななを読むのがひとつの解決方法になると思った。